目で見る 熱塩加納村の文化財 -050/144page

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の本村は陸奥国(一時分れて石背国【いわせのくに】に)会津郡に属し、のち会津郡より日橋川以北を割き耶麻郡がおかれてからは耶麻郡に属している。これらの郡を治める郡衙【ぐんが】がどこにあったかは現在のところ不詳である。

 大化の改新による唐の制度にならった律令政治も乱れ始めたので、その立て直しを図って桓武天皇は、また都の寺院勢力の弊害を除かんとして都を山背国長岡京に遷し、さらに平安京に遷してより平安時代を迎える。

 この時代を迎えてようやく本村のことが歴史上の出来事として記録に初見する。すなわち「会津温故拾要抄【あいづおんこしゅうようしょう】」に「大同元年(八〇六)夜大会津郡月輪荘、更級荘一夜にして湖水となる (猪苗代湖の生成)、是病脳山今は磐梯山に魔魅【まもう】すみ崇りをなす故なり。その頃当郡(耶麻郡) の宮司藤原朝臣富士麻呂友則今の半在家に住む。此の趣きを帝都に奏す。即ち勅命に依って沙門空海芳志此の地に下向す…」、また「宮司藤原友則小田里蚕養宮に宝器を納め…」、また「久寿元年(一一五四)会津黒川熊野宮別当天台の徒、延寿寺宝器時の大主半在家に住む正四位下行美濃守藤原家長納む…」、(原漢文)。また「示現寺源翁塔銘」に「そもそもここの山は我が宗の元祖空海の開く所…」、(原漢文)と。

 これらはいずれも後世の資料であるが、本村に関することの初見である。これによると平安時代の初めころ上沢村といった現在の半在家に宮司(官司の誤りか)が居て磐梯山の災異を朝廷に報告したりしており、その子友清、その子義清三代の名が見え、下って正四位という高位の大守が居たとされる。

 同年代に僧空海が会津に来錫して磐梯山の災異を鎮めしとき、北方に紫雲のたなびくを望み、熟塩に温泉を発見し、霊地なるをもって一宇を建立、真言宗五峯山慈眼寺の始まりである。このことは伝承として受けつがれて来たことであるが、史実的には空海は会津に来らず、同時代の法相宗の高僧徳一と最近は訂正されている。

 また慈眼寺開基のあとの天安二年(八五八)空海の孫弟周海僧都が岩尾の中心地に真言両部神道の寺岩尾山宗光寺を開基すると岩尾「佐原義春家文書」は記しており、また之より時代は下って永久二年(一一一四)長善法印が日中八大院を開きその祖となっている。(「日中・上田義光家文書」)

 以上の出来事が本村の平安時代の歴史となって記されている。


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