目で見る 熱塩加納村の文化財 -052/144page

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三、中世のあらまし

 中世は古代につづく時代で、建久三年(一一九二)源頼朝が幕府を鎌倉に開き武家政権をおこしてから、戦国時代も終り天正元年(一五七三)足利義昭が織田信長によって京都を追われるまでをいっている。

 中世を時代別に分けると、最初は鎌倉時代(一一九二〜一三三三) で、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから元弘三年(一三三三)北条氏が滅亡するまでで、鎌倉に幕府が存在していた時代をいう。次は南北朝時代(一三三六〜一三九二) で、建武三年=延元元年後醍醐天皇が吉野山に南朝を開き、京都の北朝と二つの朝廷が成立し、元中九年=明徳三年南朝の後亀山天皇が京都に戻り南北朝が合一するまでをいう。次は室町時代(一三九二〜一五七三) で、足利時代ともいい、諸説あるが、足利尊氏が建武式目【けんむしきもく】を制定してより、天正元年将軍足利義昭が織田信長に京都を追われるまでの期間をいう。

 中世、鎌倉時代の当村の歴史的あらましを述べると、平安時代末は平氏政権が日本の政治を左右していたが、源・平争乱の末に源氏の頭梁源頼朝が文治元年(一一八五) に壇ノ浦の戦で平氏を滅ぼし、代って政権をとり文治五年さらに奥州平泉の覇者である藤原氏を滅ぼして全国の兵権をとり、建久三年(一一九二)征夷大将軍に任命され鎌倉に幕府を開き武家政権を樹立した。

 このとき頼朝創業のときより協力援助した相模国(神奈川県) の豪族三浦義明の第十子佐原義連は、父・兄と共に各地に転戦、その事績は当時の正史「吾妻鏡【あづまかかがみ】」に記されておりその名は五十五回表われている。それによると文武両道の武将として常に頼朝の側近護衛の役にあり、建久元年には頼朝家臣数ある中の十人に選ばれ朝廷より左衛門尉に任ぜられ、同七年には幕府より和泉(大阪府)・紀伊(和歌山) 二国の守護(軍事、警察の長。ときに地方行政官の権限) に任ぜられるという重臣であった。

 この義連が会津の資料によれば、文治五年奥州藤原氏征伐の功により会津(平野部) の地を頼朝より賜わり、統治の拠点を平安時代官府のあったとされる半在家に近い岩尾の地を相し、建久元年佐原城を築き、常に鎌倉にあったが在地のときは在城、二代盛連も在城、その子六人あり会津を六分割し、この本村の地は加納荘に属し五男盛時(三ノ宮青山城主) の支配するところとなる。

 次の南北朝の時代となると、越後国 (新潟県) 生れの曹洞宗の僧源翁は慶徳寺より熱塩五峯山の護法神の神託を受けて慈眼寺に進院し、改宗改寺を行ない護法山示現寺と称


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