わたしたちのまち山都町-078/110page
2)明治時代(1868〜)の山都町
武士中心の世の中がおわり明治時代になりました。それまであった30もの村が合ぺいして11の村にまとまっていきました。人々はほとんどが農業でくらしをたてていました。その中心は米づくりの仕事でした。きかいや農薬なども少なく,人間の力と牛や馬の力によって仕事をしていました。子どもたちもはたらき手をしてあてにされ,家のてつだいをしてはたらきました。
3)大正時代(1912〜)の山都町
明治から大正の時代にかわったばかりの大正元年(1912)8月,山都町内はいままでにない大洪水にみまわれました。一ノ戸川,宮古川をはじめ,いくつもの川が家や橋をおし流し,大きなひがいをもたらしました。このころの子どもの多くは,和服にもんぺすがたで,わらぞうりやげたをはき,学用品はふろしきにつつんで学校に通っていました。
4)昭和時代(1926〜)の山都町(せんそうがおわるまで)
大正の次には昭和の時代になりました。昭和のはじめごろの生活はとても苦しく,寒さのために米があまりとれない年もあったりして世の中はぜんたいが暗く不安定になっていきました。昭和6年(1931)ごろから日本はせんそうへの道をたどっていきました。せんそうは年々ひろがり,昭和16年(1941)には太平洋せんそうが始まりました。
山都町からも多くの人が兵隊として出かけていきました。兵器をつくる工場へ行く人もいました。せんそうがはげしくなるにつれて,はたらき手をうしなう家も出てきました。食べ物や着物,身のまわりの生活用品も少なくなっていきました。昭和20年(1945)にせんそうがおわるまで,このようなつらく苦しい時代がつづきました。