高郷村勢要覧 -023/035page

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「たかさと」の交流はボート物語の受発信から。

たかさとの思い出
お茶の間に語り継いでください!「会津たかさと」の思い出
記念品袋には、ひめさゆりのコサージュ、紙人形や箸置きなど、村民手づくりの品々も詰め込まれました。

村民手づくりの演技
好評だった村民手づくりの演技!マーチングバンドや大合唱で歓迎。
保育所の鼓隊、小学生の合同バンド、村民コーラスふれあいなどの合唱で、開会式を華やかに彩りました。

選手入場
第7回開催から43年ぶり!秋晴れの阿賀川に236クルー集結
開会式は高郷中学校グランド。選手や監督、役員関係者ら1,076名が集い、健闘を誓い合いました。

秋篠宮ご夫妻
第50回国民体育大会漕艇競技会の会場にご到着の秋篠宮ご夫妻
競技は両殿下をお迎えして始まりました。村長を通じて、会場地・高郷村民にねぎらいのお言葉がありました。

小見川町長と高郷村長
友好都市千葉県小見川町
利根川の河口堰である小見川大橋の東京側に小見川町はあって、ボートを始め、カヌーや水上スキーなどヘルシーな水辺空間に恵まれています。
会津藩米の江戸送りルートの一つに、水戸〜北浦〜小見川大橋付近〜江戸川ルートがあって、会津とはご縁の深い地柄です。人口約2万6千、世帯数8千百。面積61.84平方キロ。

 ボートのメッカ、『おぎの』。旧会津藩の船道であった阿賀川は、新世紀の「会津らしい個性と魅力」づくりを先導します。
山と河のボート里、小見川町と友好都市に。
 1973年(昭48)の千葉国体。一般男子ナックルフォアに、農民クルー・高郷ローイングクラブが出場し、スポーツ界の度肝をぬぎました。そして、開催地の小見川(おみがわ)町は、「これこそ、国体本来の姿である」と激賞。それは直ぐここ高郷村にも伝えられて、村民は感動、友好の芽が育ちます。高郷村は小見川町の薦めでボートサミットに参加。その後、河辺と山国の交流を通して、1991年(平成3)に友好都市締結のはこびとなりました。1998年(平成10)、小見川町で催された全国市町村交流レガッタ(第7回)に高郷村も参加して歓迎され、交流を深めあいました。
「ボート、山を漕ぐ」県営荻野漕艇場誕生夜話。
 「ボート、山を漕ぐ」は、県営荻野漕艇場のルーツを物語る名言として語り継がれております。
 1950年(昭25)、第7回福島国体(福島・宮城・山形3県共催)のコース視察に訪れた日本漕艇協会の瀬田修平理事長が『おぎの』を絶賛。この山中コースに疑問を抱かれた文部省の東俊郎体育局長にも、県の国体誘致委員会が視察を依頼。あいにくの強風の中、ポンポン蒸気で白波の立つ水上から現地へ向かいます。ところが、コース予定地では、その《白ウサギ》は一匹も現れず、一行を驚かせます。
 東氏は「立派なコースだ。《ボート、山を漕ぐ》ということにしよう」と語り、瀬田氏の判断を納得して、松島湾案などを退け、1952年(昭27)の国体コースに決定します。
 その後『おぎの』は、次のような輝かしいレース歴を語り、高郷村はボートの村里として知られるようになりました。
 1959(昭34)と78(昭53)の高校総体、82(昭57)と91(平3)の社会人・実業団…などです。
あいづたかさと!水面からの発信、再び。
 71クルーが集う1952年(昭27)の『おぎの』国体。むしろ旗を揚げての応援合戦がなつかしい西海枝青年団の農民クルーの大健闘。悲喜こもごものエピソードを暖める駅前旅館とさいかち民宿群。その『感動』に魅せられ、ボートのとりこになった幾多の青年たち。そして、裏方に徹してレースを支え続けてきた村の仲間たち。国体効果は計り知れないものがありました。
 あれから40年余り。1995年(平7)秋、あの歓声が再び郷土の山河にこだまします。村の幼馴染みが3人も選抜された福島選抜チームが少年少女舵手付きフォアで優勝。93年(平5)全国中学選手権を制した高郷中女子シェルフォアのメンバーたちで、村人の目の前で再び青春の覇者となったのです。
 二十一世紀は「感動」の受発信の時代。ふるさと情報の発信基地・村役場クルーも、交流の更なる促進と、ふるさと人口の増大を希って『高郷の感動』の受発信を目指し、全国制覇の夢をむさぼり始めます!。

応援グッズ

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掲載情報の著作権は高郷村に帰属します。
高郷村の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。