わたしたちの郷土 高郷村 - 085/094page
のです。
大正時代の中ころからは、世の中が不景気(ふけいき)で会社を小さくしなければならない時もありました。その時には石材を粉(こな)にしてみがき粉(こ)を作るなどしてくふうしました。
正治は、荻野地区に2ヘクタールの田畑を開墾(かいこん)するなど、農業の面でも努力しました。
正治は、昭和17年から26年まで、第二次世界大戦中((だいにじせかいたせんちゅう)や戦後(せんご)のこんなんな時代に、村会議員(そんかいざいん)として村の発展(はってん)のためかつやくしました。
大正12、3年ころには、石材を運(はこ)ぶために、アメリカ製(せい)のトラックを買(か)って使いました。当時は馬や荷車(にぐるま)で物を運ぶ時代で、自動車は大変めずらしい物でした。タイヤは空気の入っていないかたいゴムのタイヤだったということです。
このように、正治は、いつも新しいことをこころみるなど、計画的で行動的な人でした。