わたしたちの郷土 高郷村 - 084/094page
また、市太郎は自分の家を塾(じゅく)にして、青年たちに学問(がくもん)を教えました。
市太郎は、ざんねんながら30才(さい)という若さでなくなりました。
当時のうるし産業(さんざょう)や青年活動にとって大きないたでであり、たいへんおしがられたということです。(4) 佐藤正治(さとうしょうじ)
明治(めいじ)22年(1889年)〜昭和42年(1967年)
現在(げんざい)の丸正石材株式会社(まるしょうせきざいかぶしきがいしゃ)を始(はじ)めた人で、荻野(おざの)の商業、工業(しょうぎょうこうぎょう)をさかんにするために功績(こうせき)を残しました。
荻野は、鉄道(てつどう)が開通(かいつう)する前は、農家(のうか)が4軒(けん)しかない小さなさびしい村でした。それが今のように大きくなったのは、鉄道の開通と、もうひとつは石材(せきざい)の開発(かいはつ)があげられます。
荻野で早くから石材をほり始めたのが、佐藤正治です。正治は、新潟県中蒲原郡大蒲原村(にいがたけんなかかんばらぐんおおかんばらむら)の大澤(おおさわ)という所で生まれました。正治は、開通したばかりの岩越(がんえつ)鉄道(今の磐越西線(ばんえつさいせん))を列車(れっしゃ)で通ったとき、荻野に緑色(みどりいろ)をした石があることを知りました。そのあと、舟に乗って調(しら)べ、この石がたくさんあること、建築材(けんちくぎい)として役(やく)にたつことをたしかめました。正治は、大正16年ころ、数人の石工(せっこう)とともに、わずかなお金をもって荻野にやってきました。いつのまにか、荻野の石(緑色凝炭岩(りょくしょくぎょうかいがん))は、荻野石(おざのいし)として当時の建築(けんちく)ブームにのり、土台石(どだいいし)や石倉(いしぐら)の材料として知れわたり、とぶように売(う)れていきました。最初(さいしょ)は2〜3人でのみをふるってほっていた石きり場は、佐藤石材株式会社(さとうせきざいかぶしきがいしゃ)となって、毎日(まいにち)貨車(かしゃ)3輛くらいの石材を出すほどになりました。石工や職人たち(しょくにん)も集まってきて、荻野はだんだん大きくにぎやかな町になっていった