わたしたちの郷土 西会津町 -101/122page
V 輝(かがや)かしい先人(せんじん)たち
1 土地(とち)を開(ひら)いた矢部理左衛門(やべりざえもん)
矢部理左衛門は,1615年(元和元(げんながん)年)に奥川地区(おくがわちく)の今の真ヶ沢(まかざわ)に生まれました。
おさないころから,すぐれた子どもであったと伝(つた)えられています。
理左衛門が30歳(さい)のころの農民(のうみん)たちの生活は苦(くる)しく,ほかの土地へ逃(に)げていく人たちなども数(かず)多くいて,田畑(たはた)は荒(あ)れていました。
保科正之(ほしなまさゆき)が会津藩主(あいづはんしゅ)になり,新しく田畑を開(ひら)くことをしょうれいしていることを知ると,理左衛門はいち早く新しい田を開<計画をたてました。
奥川地区の向原付近(むかいはらふきん)の原野(げんや)に目をつけ,会津藩に新しい田を開<ことをねがいでて許可(きょか)されました。
1645年(正保(しょうほ)2年)には,真ヶ沢から吉田(よしだ)というところにすまいを移(うつ)し,大勢(おおぜい)の人を使って雨の日も風の日も休まずに,新しい田の開発につとめました。およそ10年後には,たくさんの米がとれるようになり,その成果(せいか)を会津藩にほうこくしました。
会津藩では,理左衛門のはたらきをみとめ,新しい田が開かれたあたりを吉田組(よしだぐみ)とし,理左衛門をその組の郷頭(ごうづしら)(村々を治(おさ)める役(やく))にとりたてました。