わたしたちの郷土 西会津町 -102/122page
その後も,理左衛門(りざえもん)は新しい田を開(ひら)くことにつとめ,26の村々に新しい田を開き,40本あまりの水路(すいろ)を切り開いて水を引きました。
また,生活が苦(くる)しくて越後(えちご)(今の新潟県(にいがたけん))や米沢(よねざわ)の方に逃(に)げていた人々を100人以上(いじよう)も呼(よ)び返(かえ)して,米つくりの仕事(しごと)にあたらせました。
新しい田を開く仕事の途中(とちゅう),お金がふそ<したため,会津藩(あいづはん)から借(か)りたという記録(きろく)ものこっています。
郷頭(ごうがしら)をやめたあとも新しい田を開くために努カ(どりょく)しましたが,ついには病気(びょうき)になり,1667年(寛文(かんぶん)7年)8月52歳(さい)でこの世(よ)を去(さ)りました。
理左衛門が新しく切り開いたと思われる吉田付近(ふきん)の田からは,毎年(まいとし)たくさんの米がとれるようになりました。
しかし,新編会津風土記(しんぺんあいづふどき)によれぱ吉田新田を切り開いた人は,宮城八左衛門(みやぎやざえもん)であるという記録(きろく)もありくわしいことはよくわかっていません。
いずれにしても,わたしたちの郷土の発展に尽くした先人がたくさんいたことを誇りにしたいものです。