あいづばんげ町勢要覧 -023/034page
中野竹子
中野竹子は会津藩土中野平内 の長女として弘化四 年(1847) に江戸で 生まれた。父は 江戸詰の武士で、竹 子は幼少の頃より俊英に て進取の気風に富み、特に書道 と薙刀に長じていたといわれている。
慶応四年(1868)激動の会津に帰った 竹子は一時、坂下町内の縁者宅に身を寄せ、 その後父母と共に若松の城下に移り住む。
同年夏、会津若松の城下はすさまじい戦場 と化す。いわゆる戊辰戦争である。八月二十 三日、藩主松平容保の義姉照姫警護の任を帯 びた竹子は、照姫坂下へ赴くの報を受け母妹 とともに家を出た。やがてそれは誤報と判明、 竹子たちは再び若松へ引き返すこととなる。
帰路高久の宿に一泊し、明けて二十四日、 一行は幕軍の衡鋒隊、坂下の剣道師範渋谷東 馬率いる一行らに加わって、その夜、薬師堂 河原において布陣していた新政府軍と激しい 戦闘が繰り広げられた。奮闘むなしく竹子は 銃弾に倒れ、壮絶な戦死をとげた。享年二十 二歳。その首級は法界寺に今も眠っている。
束松事件
戊辰戦争に敗れた会津の城下町には各方面 から無頼の徒が入り込み、町人や農民をバク チに誘い、ニセガネを賭けて巧みにニセガネ でないものを集めていた。これは西軍側が朝 敵となった土地の経済を混乱させる目的でニ セガネを持ち込んだともいわれている。このニセガネの取締りにかこつけて無実の ものを捕らえて投獄したり斬首したりして、 会津人の恨みを買っていたものに若松県監 察方頭取である久保村文四郎がいた。 彼は越前藩士で、西軍につ いてきて若松県の役人 になったもので ある。
明治六 年(1873) 頃、任終わって郷里 に帰る久保村が片門の宿から 籠に乗り、束松峠に向かう途中滝沢 橋近くにさしかかると、いきなり薮から パ 二人の武士が抜刀し襲いかかり斬殺してしま った。この二人は旧会津藩士、伴百悦(どうえつ)・高津平 蔵で、共に会津坂下町にも居を構えていた高 潔の士で、伴は剣の達人、高津は吉田松陰が 尋ねるほどの憂国の士でもあったのである。
堀部安兵衛
あの赤穂浪士のひとり、堀部安兵衛は本名 を中山安之助といい、寛文十年(1670) 会津坂下町内の貴徳寺で生まれている。父親 は訳あって勘当の身となり、新潟の新発田か ら会津坂下の茶屋町に移り住んでいた。母は五歳の時に病死し、病床にいた父も安 之助が十三歳の時、押し込み強盗に斬られて 亡くしている。この時、安之肋は父の脇差で 強盗を刺殺し、見事仇討ちを果たしている。
その後新発田藩の祖父に引きとられ、後に 江戸に出て剣の修業に励んだ。その時、 高田馬場で菅野六郎左衛門の仇討ち をして勇名をはせ、これが緑 で赤穂藩堀部家の養子と なった。
堀部安兵衛は、 元禄十五年 (1702) 十二月十四日、か の赤穂浪士討入りの 四十七士のひとりに名 を連ね生涯、三度仇討ちを 果たすという数奇な人生を駆 けぬけた。会津坂下町貴徳寺に は、両親が眠る墓が残っている。