わたしたちの郷土 湯川村 - 023/106page
堰(せき)のようす
湯川村は、県内(けんない)でもおいしいお米が多く取れる米どころです。
これは、稲(いね)に必要(ひつよう)な水を確保(かくほ)するために、祖先(そせん)の努力(どりょく)によって堰(せき)が作られ、守(まも)り続(つづ)けられてきたためです。
勝常地区では、いくつかの堰により用水を確保しています。その中でも一番古い河沼堰(かわぬまぜき)は、中世末期(ちゅうせいまっき)天文(てんもん)5年(1536年)に、阿賀川(あががわ)(大川)より取水(しゅすい)しています。その後、会津若松市の高久地内(たかくちない)から水を引きました。この堰は、佐野堰(さのぜき)といいます。このほかにも小野田堰(おのだぜき)や弘化堰(こうかぜき)などがあり、約530ヘクタールの水田をうるおしています。
笈川地区でもいくつかの堰から用水を確保しています。そのうち、戸の口堰(とのくちぜき)※1 は、元禄(げんろく)6年(1693年)に猪苗代湖(いなわしろこ)から取水(しゅすい)する工事(こうじ)が行われました。その後、堰の幅を拡張(かくちょう)する工事が3年かかって行われ、のべ5万5千人もの人々が働(はたら)きました。戊辰戦争(ぼしんせんそう)※2 の時、白虎隊(びゃっこたい)が自刃(じじん)したことで有名な飯森山(いいもりさん)の山腹(さんぷく)にある洞門(どうもん)も、この工事によりできたものです。また、天和(てんな)2年(1682年)に、日橋川(にっぱしがわ)から取水(しゅすい)する高瀬堰(たかせぜき)が完成(かんせい)しました。この堰により約250ヘクタールの田に水を引くことができました。
※1 戸の口堰……猪苗代湖西岸の船着き場の近くにある。
※2 戊辰戦争……新政府と旧幕府の戦争。干支の戊(つちのえ)と辰(たつ)から戦争の名がつけられた(1868年1月〜1869年5月)
河沼堰 高瀬堰