会津本郷の野仏 -016/090page
32 戦死七士・八人・四十人の墓下野街道に沿って、栃沢の南谷あいに“土佐藩士七士の墓・関山の南へ外れて氷玉川辺りに“会津藩士四十人の墓・さらに新町(御弓新田)に“御弓隊士八人の墓”が建立されています。
会津戊辰戦争は慶応四年八月二十四日、大内峠を通過してきた西軍と栃沢・関山間で大合戦となりました。同二日・三日・四日の政防戦は昼夜にわたって熾烈を極め、敵味方多くの戦死者を出しました。
“七士之墓”は、昭和四十年八月十日に石川名平氏によって再建“四十人之墓"は、明治四十八年に金子千代之助が再建して現在に至っています。
今、下野街道を歩いて“戦死者"を弔うとき、当時の烈しい政防戦が香華を過ぎります。
33 陣没(じんぼつ)軍馬供養塔・他(二基)観音山(284メートル)に、高さ・幅・厚さ、それぞに1.8メートル・0・35メートル・0・25メートルの「陣没軍馬供養塔」が、昭和五十年三月に建立されています。
口はきけなかったものの、、戦場で大いに活躍した従軍馬の功績を称(たた)えるものであります。
関山に、地上高2.30メートルを越す巨大碑が建立されています。正徳六丙甲(1716)の造立で驚くほど立派な碑です。正面に「阿弥陀三尊・奉供養熊野二世塔」と刻まれています。
入宗入口に、天保十二年(1841)造立の「蹄身」と刻まれた珍しい碑があります。
※天保四年(1833)・天保七年(1836)の飢饉で死亡した人々の霊を供養するために建立されたと推察されます。
(尾島利雄氏よりの御教示)
34 萱野隊長の碑と死節碑観音山284メートルの北端に突出する奇岩群の中に「萱野隊長の碑」が巨大な自然岩の上に建立されています。
会津戊辰戦役の折の、萱野隊長の奮戦を記し、知人勇兼備の良将とて惜しまれ、敬慕された事情が大正六年十月に刻まれています。
裏面には、組頭五名・物頭三名・隊下申士組五十人・物頭組九十人・兵糧方五十人の氏名が見られます。