会津本郷の野仏 -015/090page

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板碑です。中央に富士山が線彫りで象(かたど)られ、頂の上に直系0.28メートルの日輪がバランスよく彫り込まれています。

 福光の里から富士山は遥かに隔たっています。山そのものを神体とする信仰の形をここに移して“浅間講"が行われたものと考えられます。


29 宗頤石祠(そういんいしほこら)

 永禄四年(1561)芦名盛氏が岩崎城を築いたころから、鶴ヶ城との中間地点に“糟尾宗頤”というお医者様がいました。

 “宗頤”は貧富のへだてなく、城下はもちろんのこと里人の病(やまい)の治療や、困りごとにまでも意をつくすことが多かったそうです。

 宗頤が郷里の糟尾村(現栃木県簗野町粕尾)に去った後に、里人はこぞって彼の徳を慕って“神様”として祀りました。

 依頼、八月二十四日の祭日には五反旗の幟を立てて祀っていたといわれます。

 神祀は大川端に鎮座して、氏子の安泰と平和を守る神として尊崇されてきました。

 宗頤の守り本尊は(高さ85センチで徳一大師の作と伝う)北会津村上米塚の玉光堂に“延命地蔵”として安置されています。


30 愛宕(あたご)
31 文殊祠

 愛宕様は、京都愛宕山上にある旧府社です。天応元年(781)に、和気清麻呂(わけのきよまろ)が光仁天皇の勅命によって、平安京鎮護の神として祀られたものです。

 入宗に、阿部清次・星竹四郎の両氏によって建立された地上高1.45メートルの“祠(ほこら)”が祀られています。火の神・火伏せの神・防火の神とての信仰と考えられます。

 文殊菩薩は諸仏の知慧をつかさどる仏です。釈迦如来の脇侍として左に侍し、普賢菩薩とともに三尊を形成しています。

 福光の地蔵堂裏地に、天明元年(1781)に造立された“文殊祠”が祀られています。

 「三人寄れば文殊の知慧」といわれるように、すばらしい考え、すぐれたよい知慧がひらめくようにとの信仰から、二百余年以前に建立されたものでしょう。


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