時空抒情 新鶴村村制施行100周年記念誌 -030/057page

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条里制の痕跡を求めて

条里制の痕跡を求めて
 日本の宗教は多神教でありノ、八百万(やおよろず)の神がおわす。中でももっとも多いのが稲荷の神だ という。字面からも、語源となった 「イネナ リ」の神話からも想像できるが、弥生時代に 農耕文化と共に渡来した農神様とするのが一 般的である。後に、国の美称を「瑞穂(みずほ)の国」と するほど、日本は古くから農本主義の国であ った。
 新鶴村名誉村民でもある山口弥一郎氏が、 昭和三四年に著わした『奥州会津新鶴村誌』に も、日本と当地方における農業の歴史が以下 のように書かれている。
 「農地改革は既に文化二年(六四五)正月の 大化改新の詔によってなされた歴史がある。 豪族が漸次開発して私有地化してきた耕地を 人口、戸数によって平等に分配した班田制で あって、このために大規模な土地整理、現在 の耕地整理のような、配分するための条里制 が行われた。しかしこれは主に、文化の進ん だ奈良、京都、近江などの関西地方に行われ て、東北地方でも仙台平野の多賀城付近と、 山形県の庄内平野の一部にその痕跡のあるこ とが、近年の研究によってわかり始めている 程度である。私は青津古墳を調査してみて、 会津盆地の一部にも、その痕跡をみつけられ る希望をもっているが、未だ確証はつかめて いない。雀林の法用寺を中心とする開発は古 く、嘗てこの部落を精細に調査した際、屋敷 割があったのではないかという見通しをつけ 始めたことがあるが、寺領の坊の古図などを みて、寺領の地割で、条里制の痕跡ではない ではないかと思って、その後の調査は進めて いない。新鶴村にもこのように多くの古墳が 発見されてみると、当時の開発も、相当進ん でいたであろうとは思われる。しかし佐賀瀬 川の古扇状地はシラス台地であり、新扇状地 は河道の変遷常なく、東部低地は氾濫原で、 寛文五年の書上げ帳などにさえ、河原、谷地 が、相当多くあったことがみえているから、 耕地の大規模なまとまった開発は容易でなか ったと思われる」(原文のママ、以下も引用は同)。
 以上の文から、大きく二つの事柄に結びつ けることができる。一つは条里制と文化の進 展度合いであるが、文中に出てくる地名「奈 良、京都、近江、多賀城付近、庄内平野の一 部」からも分かるように、商品流通・消費活 動とも密接に関連している。
 そもそも商業の発達は、平安時代中期以降、 荘園領主の展開する大きな消費経済によって 被官(家来)や商工業者の群が養われ、これら を中心とする独得の都市が形成されたことに よって成立した。まずは京都に始まり、寺院 都市奈良と続いていくのであるが、特に門前 町では広大な神領から寄せられる多額な資本 として、多数の神職らによって消費活動が活 発になされていた。そこに定期市が普及し、 宋銭が取引に使われるようになり、部分的な がら貨幣経済が伸展していくことになる。
 「庄内平野の一部」とは、年貢・商品の中継 地としての酒田湊(みなと)であり、やがては庄内百万 石の美田となる後背地を指している。
 もう一つのポイントは、会津盆地における 条里制の痕跡未確証の件(くだり)である。
 弥生時代の農耕文化といい、農本主義、瑞 穂の国といい、さらに日本の食糧基地などと いえば、東北地方はいかにも古(いにしえ)から水田で埋 まっていたかのような想像をしがちであるが、 最近の研究によると、水田開発にはかなりの 賢本投下が必要であり、それには都市が発達 し、換金作物としての米の需要をもたらす近 世中期まで待たなければならなかった。中世 では東北の荘園・公領の年貢に米は見られず、 代りに布・苧(からむし)・絹・金・馬が田地に賦課され ていたという。
 生業の総称であった「百姓」が、その一つで あった「農民」を指すようになるのは近世以降 であり、それを決定的にしたのは明治五年(一 八七二)の壬申戸籍であったように、東北地方 では、ごく一部を除いて農業は未だしの領域 であった。いかに雀林の法用寺が古刹(こさつ)である とはいえ、その寺領に条里制の跡を見出すの は難しいのではないだろうか。


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