時空抒情 新鶴村村制施行100周年記念誌 -031/057page

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農業における近代化政策

 では新鶴村の農業は、いつ頃から、どのよ うな形態で発達してきたのであろうか。以下、 前掲した『奥州会津新鶴村誌』(以下『村誌』と 記述)と、会津みどり農業協同組合新鶴総合 支店から提供していただいた「新鶴村農業協 同組合五〇年史略年表」(以下「農協略年表」と 記述)を参考に検証してみよう。
 『村誌』に農家経営規模としての記述が見ら れるのは、寛文五年(一六六五)の書上げ帳の 数字からである。文中に「当時はいくつかの 新田は開村して日が浅く、河原、谷地などが 多く、耕地も少なかったようである」「反当り の収穫量も低く、且つ上納米も苛酷であった から、当時の農民の生活が如何に惨めであっ たかは、想像に余りある」と、当時の様子が 書かれている。ちなみに、桧ノ目・桧ノ日新 田の寛文五年の耕地面積は二〇町五反九畝、 昭和二五年(一九五〇)は六〇町一反三畝と、 二八五年間で約三倍の増加を示している。
 この耕地問題に関していえば、明治三三年 (一九〇〇)に耕地整理法が公布されているが、 新鶴村に関しては大正二年(一九一三)から阿 久津・桧ノ目・桧ノ目新田を先駆として始ま った耕地整理を画期とする。『村誌』には、「漸 次開拓が進んできた無秩序な耕地を、ほぼ一 反単位に区切り、用水排水及び農道を整備す る工事で、このために各部落では大幅の増歩 地が出た。これは開拓の上からも画期的の大 事業であった。畜力、機械化農業の発達の基 盤をつくったといってもよい」と書かれている。
 このように農業においても、一応は近代化 政策がなされていくのであるが、二〇世紀前

耕地整理着工前の阿久津地区
耕地整理着工前の阿久津地区(大正元年頃/渋谷幸義氏提供)

耕地整理竣工記念・境野地区
耕地整理竣工記念・境野地区(昭和3年/鈴木正氏提供)


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