時空抒情 新鶴村村制施行100周年記念誌 -034/057page
頃、昭和二三年のことである。もっともその 前身としての、生産技術の向上をめざす農事 実行組合と、生産品の流通を管理経営してい く自衛組織の結成は戦前からあり、その流れ を整理すると、有限責任新鶴村信用購買販売 利用組合(昭和四年)→新鶴村農会(一六年)→ 新鶴村農業会(一八年)となっている。
その後、現在に至るまでの新鶴農業の実態 は、「農協略年表」を見れば、米価の変動と共 に浮かびあがってくるが、まさに猫の目のよ うに変貌する農業政策と、自由化という外圧 にどのように対応するかが問題だった。「農協略年表」に見る変遷
冷夏による凶作の年であり、ガットのウル グアイ・ラウンドによってコメ市場の部分開 放が決定した平成五年(一九九三)は、食管 炎上、平成コメ騒動″と叫ばれ、農業問題が 掲載されない日がないほど新聞紙上を賑わし た。視点はさまざまで、「瑞穂の国の再生を」 といった情熱的なものから、「コスト低減、大 規模化農法」による生き残り策、さらには「農 民は勇敢な国土防衛隊」という環境問題に至 るまで、まさに議論百出の観があった。だが、 もっとも切実だったのは、選択の余地なく輸 入米を食べなければならないといった直接的 な台所事情から、現在の日本が自給率三〇パ ーセントを割り込み、世界最大の食糧輸入国 になっている現実が見えたことである。
このコメ市場の部分開放決定は、「自国の食 糧は自給することができる」という国家主権 を揺るがす大問題であった。しかし振り返る