時空抒情 新鶴村村制施行100周年記念誌 -042/057page

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千歳桜

 古今東西、悲恋物語は数多い。福島県の伝説に限 っても、例えば「みちのくの信夫もぢずりたれゆえ にみだれそめにし我ならなくに」の歌でも有名な、 虎女と左大臣源融の(みなもとのとおる)『信夫文知摺』(福島市山口)や、 清姫と安珍の『安珍経塚』(白河市櫻田)、一六の娘の 身空で、悲嘆のあまり入水した『十六沼』(福島市大笹 生)などがある。
 だがおそらく、新鶴村に伝わる常姫と富塚伊賀守 盛勝の悲恋物語(仮にこの稿のタイトル『千歳桜物語」 とする)ほど、史実に近い伝説は珍しいのではあるま いか。この物語は、新鶴村名誉村民山口弥一郎氏が 昭和三四年に著わした『奥州会津新鶴村誌』(以下、『村 誌』と記述)に詳しいが、それには 「もちろん決して 私の創作でもなければ、古老が伝え聞き、皆が知っ ている物語である」とある。
 伝承・伝説は、少なからずどの地にあっても風化 していく。残念ながら、この「千歳桜物語』も、今の 子らにどの程度伝わっているか不安なところなしと はしないようである。そこで村制施行一〇〇周年を 機会に、『村誌』を参考にしながら、振り返ってみた いと思う。

ミッシング・リンクを結ぶ伝説

 まずは史実から確認してみよう。
 「南胆部州、大日本国、奥州会津、大沼郡根 岸中田村、観音菩薩像者、佐布川村江川長者 常俊、一人有姫宮、彼女、文永十癸酉六月十 七日、染風疲俄死、故長者、沸涙悲泣、而為 菩提、奉鋳観音像、此姫応形、造六尺二分、 同脇立為不動、地蔵也、則四間四面建堂、以 伸供養、抃弥陀、竃焼黒地蔵、伊勢、八幡、 春日、仁王、鐘楼倶七堂也、夫及末代、為令 再興、奉寄進、田畠地山林共者也、仍善仏、 敬白/干時文永十一甲戊八月八日 厳知客誌 之」(原文は改行があり、句点はない)。
 この観音鋳造の縁起は、再建銘と朱漆で書 いてあり、慶安元年(一六四八)の再建の時に 記したもので、文永一一年(一二七四)のもの ではないという。これによると 「佐布川村江 川長者常俊」が、「文永十一癸酉六月十七日」 に一人娘を「染風疾」でにわかに亡くし、その 菩提を弔うために、この姫君の姿に似せて観 音像を鋳造したとある。
 佐布川(さぶかわ)村とは明治二二年(一八八九)の町村 合併で田川村となるまで存続していた村名で、 現在の会津高田駅の東北、鶴沼川畔にあたる。 この縁起からは他に、「一人有姫宮」とあって、 それが「常姫」という名であることも、まして や幼名が「千歳」であることも判明しない。さ らには「染風疾俄死」をそのまま解すれば、流 行病(染疫)を患って亡くなったのであり、「恋 の病」とはどこにも記してはおらず、根岸村の 領主富塚盛勝の名も出てこない。しかしこれ が歴史にはつきもののミッシング・リンクで あり、だからこそ史実を補う伝承・伝説が大 切になる。例えば常姫(幼名千歳)などは、ま ったく根拠なしに勝手に命名されたはずはな く、江川長者が実在の人であった限り、その 愛娘名は地域の人々によって伝承されてきた とみる方が自然である。これに、普門山円通 院弘安寺の縁起や当時の支配体制、千歳桜の 由緒を辿っていけば、まさに紛うかたなく悲 恋物語が成立する。

清くうるわしい昔の恋物語

 では、伝承されている物語のあらましを『村 誌』から抜粋してみよう。

弘安寺旧観音堂
弘安寺旧観音堂。かつてこの中に弘安寺三尊像を奉祀した厨子(いずれも国 重要文化財指定)が安置されていたが、現在は移築されている(新鶴村民俗資料館提供)


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