時空抒情 新鶴村村制施行100周年記念誌 -043/057page

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 「ここに昔江川常俊という長者があった。大きな豪族であったであろう。何不自由ない豪華な生活をつづ けているものの、夫婦の間に大切な子宝がなかった。それで当時すでに会津の一霊地であった雀林の法用 寺の観音に祈願して、一人の娘をもうけた。生れつき眉目秀麗で人目をひいた。…その時の娘が十七才、 御礼参りとて、桜花らんまんと咲き乱れる春の日に、法用寺に親子打ちつれて特別のお礼参りに出かけた。 姫は金にあかして作った衣服で着飾らせた。
 その頃根岸の里にも富塚伊賀守盛勝といって地頭が館を築いて住んでいた。今に米沢堤下に富塚屋敷と いう地名か残っている。その若殿は年二十才、容姿端麗、眉目清秀の美男子、丁度その日、同じく供をつ れて雀林に花見をかねて法用寺の観音参詣に出かけていた。
 館の奥深く住んで、世を知らない江川長者のまな娘常姫は、盛勝の容姿を一目みて思いつめ、館に帰る と、とっと恋の病床に伏してしまった。医者よ薬よと騒いだが一向にひきたたない。ようやく恋の病と知 って、どうしてか、娘の恋をかなわせてやりたいと、当時の黒川、今の若松城下の豪族川副七郎左衛門を 介して、富塚盛勝との結婚を申し入れた。しかるところ、盛勝は祈願の旨あって妻帯はしないと、むべに 断ってしまった。それから常姫の病状は急に悪化し、百方手当ても、交渉もしたが、遂にかなわぬまま六 月十七日にあえなくこの世を去ってしまった。
 長者夫妻は悲嘆沸泣やる方なかったが、発心娘の菩提を弔うため観音像の鋳造を思いたち、高田伊佐須 美神社の降られたと伝わる明神ガ嶽の山瀬のつきるところ、自分の一領地である長尾山の麓を選び、清浄な 地を卜して (編集注/現・米田字長尾の弘安寺奥院)、姫の身長に応じて身丈六尺二分の観音像を鋳、なお 脇侍として不動明王、地蔵菩薩を配そうと祈願した。佐布川の長者邸からは十七頭の牛の背で、七日間鋳 造のための銅を運搬したという。しかし工事は片田舎でなれず困難をきわめたが、時に白衣聖人が瓢然と して現れ、鋳型の方法、熔解の術を教えてくれて、ついに首尾よく熔鋳を終ることが出来た。同時にかの 白衣の聖人も忽然と姿を消した。
 さていよいよ三尊像をわが佐布川の里に安置しようとして、山中から車で曳き出してみたが車が折れて しまった。いくら修理してみても一向に像をのせた車は動こうどしない。長者はやむなく占わしめてみた ところ、一且この地に、心に夫と定めた人が住むからは、ここから動きたくないとのこと、長者はそれで 根岸の里に三尊を安置することになったという。
 …富塚盛勝は自分も弘安二年(一二七九) 臨済宗に帰依し、伽藍を造営して菩提を弔うこと四〇年、正 安元年(一二九九)己亥の三月十日儀然として穢土を去る。法号弘安寺殿玄翁宗頓居士という。盛勝四十 六才の時と推定される。…まことに、はかなくもまた清くうるわしい昔の恋物語ではあった」(原文のママ、 以下も引用は同)。

 次いで、昭和三三年(一九五八)に県天然記 念物に指定を受けた「米沢の千歳桜」のことで あるが、これは乎成四年(一九九三)、新鶴村 教育委員会から発行された『新鶴村の文化財』 によると、文永一〇年に盛勝が千歳という婦 人(編集注/常姫の幼名のまま伝承か)の供養 のために植えたという伝承があるらしい。
 幹の根回り九・五メートル、樹高一四メー トルのベニヒガンザクラとのことで、推定樹 齢七〇〇年、大変な古木なのだが、あるいは 枝接(えたつぎ)をして守り伝えてきたものであろうか。
 以上を整理してみると次のようになる。
・文永一〇年(一二七三) …江川常俊の一人 娘常姫、雀林の法用寺で富塚伊賀守盛勝に会

雀林の法用寺
常姫と富塚伊賀守盛勝が初めて出会ったとされる雀林の法用寺。ここには伊佐須美神社の「薄墨桜」(会津高田町)、一箕町の「石部桜」(会津若松市)、杉薬王寺の「糸桜」(会津坂下町〉、磐椅神社の「大鹿桜」(猪苗代町)と共に会津 の五桜といわれる「虎の尾桜」(会津高田町指定天然記念物)がある

長尾原の弘安寺奥院
三尊像の鋳造場と伝えられる長尾原の弘安寺奥院


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