時空抒情 新鶴村村制施行100周年記念誌 -045/057page

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弘安寺山門
弘安寺山門

弘安寺観音堂全景
弘安寺観音堂全景

い恋慕するが失恋。一七歳で死去。盛勝、そ の供養に千歳桜を植樹。
・文永一一年(一二七四)…江川常俊、娘の菩 提を弔うために鋼造十一面観音及び脇侍不動 明王・地蔵菩薩立像の三尊像を長尾原の弘安 寺奥院で鋳造。
・弘安二年(一二七九)…盛勝、臨済宗に帰依 し、伽藍を造営して三尊像を安置。菩提を弔 う。
・正安元年(一二九九)…盛勝、四六歳(推定) で死去。

円満麗艶な慈悲相は常姫か

 これまでの伝承を補強する有力な手がかり として、長尾原の弘安寺奥院がある。これも 『村誌』から抜粋してみる。  「鋳造場と伝える所に、お堂裏から佐賀瀬川 に通ずる道路の中頃の南側に奥ノ院というの がある。俗に金ゴシ壇といって、畑の中に方 一〇米に一五米程の角垣がある。周囲に三米 幅の低地が、付近は畑に地ならししても掘り あげた痕跡が残っている。観音像を鋳た時の 金滓(かなくそ)を埋めて盛りあげたものと伝 える。あるいは四八壇の一つで、 古填でなければ、あるいは経塚で はないかとも思うが、周縁にはい くらか金滓が出るので、伝承に間 違いなく、この場所でなくとも、 付近で鋳たではないかとも思う。 この金ゴシ壇の西北に接して雑木 藪の巾に長さ九米、幅六米ほどの 凹地がある。ここが鋳造の場所と もいう。鋳造には水が必要である が、付近に水の流れた跡があり、今は水は涸 れているが、いくらかは水の得られた場所か も知れない」
 ミッシング・リンクも、ここまで辻襟(つじつま)が合 ってくればついには輪となって結ばれるとし てもいいのではないだろうか。あと一つ、ど うしても少々胡乱(うろん)な伝承をくつがえすことが できさえすれば……。
 それは、「姫の身長に応じて身丈六尺二分の 観音像を鋳」という件(くだり)である。実地調査によ れば、寺院緑起の六尺二分も文部省指定書の 六尺五寸も誤りで、六尺一寸七分が正しいと いう。メートルに換算して一・八七メートル である。女性の身丈にしてはあまりにも大き い。盛勝の拒否はそれにあったとする不本意 な説もあるほどだが、それは本当だろうか。
 今一度、緑起を見てほしい。
 「奉鋳観音像、此姫応形、造六尺二分」…… 「形」には「顔だち・容貌」の意味もあり、「応 形」と「造」の間には空白があって文章は続い ていないのである。これはむしろ素直に読め ば、「姫の顔だちに似せた観音像を鋳て泰っ た。像高は六尺二分である」となるのではな いか。
 『村誌』にも、「娘に似た観音像、化仏(けぶつ)を鋳造 し」とか、頭上化仏(小仏面)の「如米面の左右 は前三面の静寂慈悲相の面で、殊に、向って 右側のものは円満麗艶で、その面貌は江川長 者の常姫がこのような相貌であったかと想像 されるほどの名作である」と書き記している のである。
 辛い、今回は大択一元住職のご協力をいた だき、かなりの程度、鮮明に化仏を撮影する ことができた。見れば見るほど、まさに円満 麗艶な慈悲相である。

脇侍不動明王・地蔵菩薩立像
右−脇侍不動明王像(国重要文化財指定/弘安寺所蔵)
左−脇侍地蔵菩薩立像(国重要文化財指定/弘安寺所蔵)


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