時空抒情 新鶴村村制施行100周年記念誌 -048/057page

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複合扇状地

 新鶴村は福島県の西北部、会津盆地の西部 に位置し、束は北会津村、西は柳津町、南は 会津高田町、北は会津坂下町に隣接している。 総面積は四〇・五四平方キロメートルで南北 に長く、地勢は海抜八六九二二メートルの高 尾嶺を最高とし、最低二〇〇メートルまで、 西方から東方へ向かって緩傾斜している。
 地形は特徴的に大きく三つに区分できる。 高尾嶺をはじめ明神ケ岳の連嶺を最奥に低山 が続く「西部山地」、乎野北部の大半を占める 「佐賀瀬川扇状地」、そして阿賀川(大川)の一 部と宮川(鶴沼川)によってもたらされたと思 われる「東部氾濫原(はんらんげん)」である。そして新鶴村の 歴史を振り返る時、もっとも特色を表わすの が「佐賀瀬川扇状地」なのだ。
 新鶴村名誉村民山口弥一郎氏が昭和三四年 (一九五九)に著わした『奥州会津新鶴村誌』(以 下、『村誌』と記述)にも、「新鶴村の大半は実 はこの西部山麓の佐賀瀬川扇状地の上にある といっても過言ではない」「この古扇状地面が 新鶴村では最も早く人間の居住地となり、縄 文式時代から、弥生式、古墳時代を経て現代 まで、断続はあっても、人間居住の好適地に 選ばれ、新鶴村文化はもちろん、会津文化の 一つの源泉地域をなしたものとみられる」(原 文のママ、以下も引用は同)といった表現で、 この扇状地の重要性を説いている。
 会津盆地は盆地底周縁の断層崖下に並ぶ扇 状地形と、雄国火山麓地形から成るが、中で も佐賀瀬川扇状地は標式的なものともいわれ る。ただし一口に扇状地と称しているものの、 前述の引用文にも「古扇状地」とあるように、 沖中田・阿久津・新屋敷・沢田の西、矢ノ目、 水島辺を末端とする現在の扇状地と、佐賀瀬 川部落から長尾原、根岸山に続く一帯のシラ ス層の台地を形成する古扇状地の複合扇状地 である。
 そして、これらに共通するものは何か。い うまでもないことだが、氾濫原をもたらした 佐賀瀬川≠ニいうことになる。

静寂の大谷地溜池

 かつて佐賀瀬川は「逆瀬川」と書いていたと いう。字義通り、急流奔放して瀬が逆立つほ どの暴れ川であったらしい。そもそも氾濫原 とは、河川周辺で洪水の際に氾濫する所をい い、それによりさまざまなダメージも受ける が、新しい土壌や栄達物質の供給も受ける所 で、いわゆる肥沃(ひよく)な扇状地を形成するに至る 佐賀瀬川の古扇状地は洪積世末期(約二万年 前)の氾濫原であったらしい。
 この、新鶴村のあらゆる文化、生活の発祥 地であったといわれる佐賀瀬川扇状地を知る には、流域を辿る以外にはない。−「佐賀瀬 川紀行」は、このような考えで始まった。縄 文・弥生・古墳時代を経て、仏教文化導入あ たりまでの痕跡を見聞する試みである。
 ここで私たちは、会津史学会会員で新鶴村 文化財保護者議委員でもある、郷土史家の唐 澤正義さんという最適任の案内人を紹介いた だいた。何しろ唐澤さんといえば、父親の倉 次さんがそもそも『村誌』の編纂委員の一人で あり、同じく委員だった村松寅吉さんは妹の ご主人の父親にあたるという、まさに歴史と

佐賀瀬川源流の明神ケ岳方面を望む
佐賀瀬川源流の明神ケ岳方面を望む

長尾原の占扇状地は今、肥沃な畑地になっている
長尾原の古扇状地は今、肥沃な畑地になっている


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