時空抒情 新鶴村村制施行100周年記念誌 -049/057page

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文化に造詣の深い家系なのだ。『村誌』を読む と、お二人とも山口弥一郎氏の良き案内人で あり、良きパートナーであったことがうかが える。
 平成一〇年五月一九目、私たちは早速、扇 頭ともいうべき佐賀瀬川部落に集結した。こ こからまずは佐賀瀬川上流の大谷地溜池まで 登り詰め、そこから川沿いに市野−上平−二 岐−仏沢−松坂−佐賀瀬川−長尾と下る行程 をとった。
 市野で柳津町軽井沢に至る県道会津高田− 柳津緑と分岐し、左に急角度でうねる山道に 入ると、そこからはほぼ深山幽谷の世界にな る。左下に断崖を見下ろしながらの慎重な運 転になるが、想像していたような悪路ではな かった。私たちは、大正九年(一九二〇)生ま れで七八歳になり、今年に入ってから少々体調 を崩されたという唐澤さんを心配したが、そ んな気配はどこ吹く風、子供のように眼を輝 かせている。これは足で稼ぐ実学の人に共通 することだが、どうやらフィールドワークと なれば体中にアドレナリンが分泌される仕組 みになっているのかもしれない。
 目指す大谷地溜池は山腹を領して静まり返 っていた。時折、初夏の風が水面を皺立(しわだ)たせ るが、あとはハルゼミの声が断続的に渡り来 るばかりである。ここに七戸の部落が眠るこ とを誰が知ろう。傍らに水神供養碑がなけれ ばこれが人工の築堤池とは思われないほど自 然と一体化している。
 大谷地溜池は、「水源洞渇して寛政年間の頃 より、非常に用水欠乏し、故に検地の派遣を 請へ、灌漑配水を執行せし事、往々之有りし が、累年田地旱害に罹るもの夥しく、水下一 般困難を極む」(山口佐五郎編纂『大谷地溜池 沿革』)といった理由で、文化六年(一八〇九) に着工し、丸九年をかけ一四年に竣功している。
 この水没第一号となった大谷地には、越後 の須田氏の子孫、あるいは上杉景勝の家来で 梁川の須田城主の子孫と伝えられる須田家が あった。そして唐澤さんの指さす方面を見て 驚いた。谷間にお椀を伏せたようにひときわ 目立つ山に、安土桃山時代に須田大炊守が住 んだ山城、龍ケ嶽域があったというのだ。何 のいわれあってこの山懐奥の、しかも険しい 山に軍備しなければならなかったのか、今と なっては知る由もない。

ひっそりと静まり返った大谷地溜池
ひっそりと静まり返った大谷地溜池

草におおわれた水神供養碑
草におおわれた水神供養碑

龍ケ嶽城址。まさに龍でなければ昇れないと思われるほとの険しい山に城があった
龍ケ嶽城址。まさに龍でなければ昇れないと思われるほとの険しい山に城があった


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