会津盆地西部地区の農業 - 092/100page

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ダムが造られる前のようす

 ダムが建設される所は,「松坂(まつざか)」とよばれ,そこには下谷ヶ地(しもやかじ),中在家(なかざいけ),中畑(なかばたけ),中村(なかむら),入谷ヶ地(いりやかじ)の5つの集落がありました。

 1180年(治承年間)ころに人が住んでいたと言われますから800年以上もの歴吏があった所です。特に下谷ヶ地は,博士峠(はかせとうげ)を越え,会津盆地に入った最初の集落であったので,峠を越える人々の宿場(しゅくば)や品物の売り買いする交易(こうえき)の場として栄えた時代もあったと言われています。

 豊かな自然にめぐまれた松坂は,林業が主な仕事で,そのほかには,わらび,ぜんまい,きのこなどの山菜(さんさい)を採(と)って売り,山にたよった生活を送ってきました。

 ダムの建設にともない,昭和58年(1983年)9月10日に「離村式(りそんしき)」が行われました。地区の58戸,193人は,長年住みなれた地を離れ,永井野・高田や若松,県外へと移転(いてん)することになりました。(松坂地区民俗調査報告書より)

▼当時の尾岐小学校松坂分校
当時の尾岐小学校松坂分校

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