新鶴村 地名の由来 -016/079page

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大字 立石田(たちいしだ)

 明治23年の町村制の実施により立石田村(立行事・梁田・大石目)の村名が大字名となった。立石田の名の由来不明。
 

 立行事(たちぎようじ) (立石田甲)

 開村年代は不明であるが永正元年(1504)以前には集落があり名は無く,立行寺の村名は永正元年以降からと史実に見える。「大沼郡に伊豆権現祠があり村名を定めず神主立行事という故に是を村名にして立行事村といふ」(異本塔寺長帳)

 「此地に昔伊豆神社ありて立行事と云,社僧ありし故立行寺村と云,寛文中今の文字とす。」(新編会津風土記・「海野氏代々記文書」「山口佐幸氏蔵」)

「立行事稲荷神社」の道標
「立行事稲荷神社」の道標
 

  金 山(かねやま) (現 立行事726〜737)
 上金山と下金山に分けられ,昔村の西北の地にマンガン鉱が出るとの話になり試掘したが量が少なく中止となった,この地は土地が肥沃で作物の収穫が多く,村の人達は「米びつ」と云っておったところから,金山と名付けられたと云われている。

  上川原(かみかわら) (現 立行事152〜187)

  前川原(まえかわら)・下川原 (現 立行事802〜810)
 上川原・前川原・下川原の3力所に分かれている。佐賀瀬川は川底が高く長尾台地を迂回その肘に当る外側を度々の洪水で堤防が決壊され田は河原になってしまうため村人は「川原田」といって,川上から,上川原・前川原・下川原と名付けられた。

  村 北(むらきた)甲 (現 立行事740〜743)
 村の北側に位置し,立行事分では一番平らな大きい土地で柳津街道にも近く便利な土地で集落北に位置するので「村北」と名付けられたと云われている。

  弁財天(べんざいてん) (現 立行事761〜766)
 村の北はずれに弁財天様が祀られてあったので,その近くを「弁財天」と名付けられたと云われているが,天文5年(1536)「白髭の水」と名付けられた大洪水により流失,堂跡のみ残っていたが耕地整理により整地され現況は堂跡もない。
堂旧跡
 弁財天ノ堂跡,村ヨリ北一〇間去テ有リ,勧請之年号並二堂何レノ頃ヨリ怠願スト云コト不詳,堂地東西十八間南北三間ニシテ杉有リ(寛文5年高田組郷村「萬改帳」・海野氏代々記・奥州会津新鶴村誌)

 

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