新鶴村 地名の由来 -023/079page
家族は皆疫病にかかったとのことで大変難儀をしていたことがある。或る日この地を通り過ぎようとする旅の僧が,旅の疲れか休息を取りながらこの話を聞いて大変気の毒に思い,村中に護摩壇を築き祈祷を行い錫杖をもって土中を指す処忽ちにして清水が湧き出たと云い伝う。時に大同元年(806)今より1192年前のことである。この旅の僧は他ならぬ諸国を巡錫している高僧空海(弘法大師)であったと云う。これを見ていた村人達は大変驚き且喜んで此地に井戸を堀村中唯一ケ所の井戸を「弘法井戸」と呼んで大事にして昭和の初めまで村人仲良く掃除して使っていた。
久保田(くぼた) 【一部 三百苅・東大門】 (現 大石ノ目)
大石ノ目水田の中央の耕地で,昔は佐賀瀬川の川底であった様で少し窪んで居ったが大正期の耕地整理で平地となり地名も昔から久保田と呼んでいる。東石神(ひがしいしがみ) 【一部石神・五枚田・柳里】 (現 大石ノ目)
昔より水田に大きな石があり大正期の耕地整理には機械もなかったために動かすことが出来なかったので土中に埋められた。神の宿る大石として,地名も東石神と呼んでいる。扇 田(おうぎた) (現 大石ノ目)
田の地型が,扇を広げた様な型であるので扇田と呼んでいる。西石神(にしいしがみ)
村中の屋敷の字名であり,村中には大きな石が数多くあり聖なる石神である。北大門(きただいもん) 【一部沢ノ目】 (現 大石ノ目)
旧大門は蕎麦ノ目村の前(南)に当り紫雲山来光院迎接寺(コウショウジ)の向かいであり,寺の入口のため北大門と呼んでいる。藤柄巻(ふじからまき) (現 梁田阿弥陀免・大石ノ目西石神・上小沢村前の4集落の接点)
道は昔より地域住民の往来ばかりでなくその道によって,文化の発展・生活物資の輸送に重要な役割を果たして来た生きた文化財である。
新鶴村内にも旧街道の塔寺街道が通じておりこの街道の道筋に中世の頃より大正期まで宿駅の盛り場として栄えた藤柄巻と呼ばれていた地域があった。その地域は梁田分6軒大石ノ目分1軒・下小沢分2軒・上小沢分2軒となっていたが現在は藤柄巻の地名は無く,梁田分は阿弥陀免・大石ノ目分は西石神・下小沢分・上小沢分は村前となり4集落の接点である。
古老の話によればこの盛り場には,明治・大正期には娼婦が3人も居て旅人や遠近よりの客で大変な賑わいであったという。
◎江戸時代の会津玄如節には
「義理と人情に藤柄(ふじから)まれて
まさか梁田(やなだ)と云われまい」と唄われた程賑わって居た。