新鶴村 地名の由来 -022/079page
鍋 田(なべた) (現 四百苅)
此地は村の東南に当り向清水と接す。昔より此地は400束の稲を苅ると云う。田の一部が「鍋づる」の様な型の田であるところから鍋田と名付けられた。五百苅(ごひゃくがり)
村東で村に一番近い地で,昔より水苗代を作り手入れも良く出来て便利な土地である。籠 田(かごた) (現 金山)
金山は村でも一番地力の良い土地で,字名のとおり金の山である耕地整理以前は金山の一部を「篭田(カゴタ)」と呼んでいた。向清水(むかいしみず)
この地は村の南東に位置す。
太古には佐賀瀬川の川底であり,昭和30年頃には駅前や新屋敷の用水として,簡易水道を設置した場所で南は立行事分北は梁田四百苅で現在も水田に清水が数ケ所湧き出る所である。前川原(まえかわはら) (道南(みちみなみ)・道東(みちひがし))
前川原は道を中心に,南と東に字名があり,太古より佐賀瀬川の川底で江戸時代迄水田に出来ない川原があった。享保年間(1716〜1735)頃にはこの川原で田舎芝居の掛ケ小屋が掛かったとの伝承がある。北は宮西南は佐賀瀬川を越えて長尾掛上りとなる。村 前(むらまえ)
村前は部落の南にあり,新屋敷堀を中に一部は苗代等に利用する小面積の所で,南は立行事分である。宮 東(みやひがし)【一部 堂屋敷】(現 宮東)
村社登我和神社の東の地名で,集落の7割が宮東の地積である。この東の一角に「堂屋敷」と古老が呼んでいた地名があったが現在は知っている人もなくなった。昔この所に御堂があったと伝承されている。
大石ノ目(おおいしのめ) (立石田 丙)
佐賀瀬川の左岸にあり,北西は小沢村,南は梁田,東北は蕎麦ノ目,東は新屋敷,沢田村と境す。
大石ノ目は,現在戸数8戸なれ共昔は24軒なりと云う。其の屋敷跡今に残れり。其の当時今の村東約1町ばかりの処に極めて大いなる石あり。其の石の上に,稲12束を乾しても尚余裕ありと云う広くて驚く程大いなるものなりき,随って今も尚東石神・西石神と云う字残れり大石ノ目とは,この石に因して名付けたるなりと……後の世に村人石工を頼みこの石を割り村内に石橋を架け又は井戸側に削りその他種々に使って,今は地下に埋まりて残れるのみ其の当時疫病大いに流行致し村人多く死す。祈祷して貰えば之は石神の崇なりと云われこれより次第に戸数減じたりと…
またこの村は,昔より井戸がなく村人が井戸を掘った処その