新鶴村 地名の由来 -052/079page

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1(丸囲み文字) 常福山




2(丸囲み文字) 坊舎跡






3(丸囲み文字) 大日山






4(丸囲み文字) 寺 山
5(丸囲み文字) 6(丸囲み文字) 寺家
7(丸囲み文字) 竪穴住居
8(丸囲み文字) 館 山

9(丸囲み文字) 土佐屋敷

10(丸囲み文字) 11(丸囲み文字) 聖宮

12(丸囲み文字) 舘 跡

13(丸囲み文字) 横穴古墳

14(丸囲み文字) 権現堂
新屋敷の常福院は昔北の山の麓2(丸囲み文字) にあったと伝えられ延元元年(1336)新屋敷に移り東光密寺と称し天正元年(1575)5月8日菓田孫兵衛明信再興とあり斉様備中守明信の次男菓田孫兵衛明重天正16年(1588)7月27日下梁田常福院開基とあり(雑考)
大日如来3(丸囲み文字) 大日山の坊舎跡として此処には仁王門堂塔,大師堂,不動尊,客殿,大同寺,宝童寺,常福院,坊内に数宇造営,鐘楼,本堂等坊数12宇あり文禄5年(1596)3月17日佐賀瀬川の村民古堂を乞求めこれを建立す元和7年(1622)3月8日弥陀,薬師の二尊が紛失す其の時の給人(寺院管理者)梅原弥佐衛門堂及び屋敷を寄進し現在の地に奉移したとある,大日堂は宝永2年(1705)酉仲秋上旬黒岩山興隆台寺なり(雑考)
住古大沼郡三島町間方村に横雲山高野寺があり大同2年(807)僧空海恵日寺を建立しその来寺として本尊大日如来を彫り三十六坊を造営(前坪山)会津五高野(恵日寺,恵隆寺,八葉寺,大高野寺)の一つとして地方民の信仰があったその後仁平元年(1151)平忠盛の命を奉じ寺院坊舎共に焼亡され大日如来は火中より出で前坪山の岩間に隠れ給ふ天文3年(1534)3月21日逆瀬川村(大日山)に遷座さる
大日山12坊の寺山なり(旧事雑考)
5(丸囲み文字) 上寺家6(丸囲み文字) は下寺家と云へ共に寺領なり
26基あり未発掘のため不詳
中世の頃当地方を支配した赤井丹波守の住居(館跡)なりと後年館主は佛沢に帰農せりと云ふ
昔逆瀬川集落の跡と云はれ農耕文化の進展と共に現在地に移転したものと思われる
10(丸囲み文字) 聖宮11(丸囲み文字) 中江と云ふ地名共に古代の住居跡にして縄文中期(5000年〜6000年)前の土器が出土している
向山と云へ大永(1521〜1525)の頃か平山十郎築住スとあり舘跡なり(会津古塁記)
7〜8世紀頃(古墳時代末期)の古墳群である出土品は人骨多く,外二直刀一振,鉄ノミにも出土したと云ふ(現在不明)
村東を含む田畑及び屋敷一帯を云ふ。縄文前期の土器石器等数多く出土し信仰に用ふる土愚石器類あり

大字 佐賀瀬川
大字 佐賀瀬川
 


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