新鶴村 地名の由来 -053/079page

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大字 上 平(うわだいら)

 大谷地・市野・上平の3集落をもって大字上平と称されている。大谷地・市野・上平の3集落は,佐賀瀬川の谷の最奥の集落で,藩制時代は軽井沢村(現柳津町)の端村として高田組に属していたが,明治23年4月1日の町村制施行の際旧西山村に含まれ,更に昭和24年1月1日新鶴村に編入された。

 大字・小字名ともその由来不詳。
 

 大谷地(おおやち)

 昔より沢水の豊富な所で,水下の農民の要望により,文化6年(1809)藩令により居宅6戸を現在地に移転し堤の構築に着手文化14年(1817)に竣工した。是がため水下の各集落では大谷地米を支払い現在も続いている。集落の地名は上平字長窪と云う。山林は舘山(龍ケ岳 大舘とも云う。)天正年間(1573)地頭須田大炊介,地行8千石の山城である。

 西は柳津町に接す高尾峯・鳥屋山で,北は市野高平山を境とする。南は明神ケ岳山麓より流れる二岐川を境に高田町分となる。水田は柳津町軽井沢道路の沢地に字名坂下・遅沢があり軽井沢分には越田がある。畑地は金山道・槻坂・下谷地・油畑・桶清水・村北・清水畑・天上等である。その他周囲は山林である。

 昭和26年大谷地に季節分校が開校されたが翌27年大谷地集落の大火により集落全戸が焼失。同30年には大谷地堤の決壊と相次ぐ災害にあって来た集落である。現在は過疎となり住宅は無くなっている。住民は村内又は他町村へ移転している。

 須田操氏宅及び分家の家紋,保存されている差物の旗印等から越後の須田大井頭の子孫と伝えられ,又梁川の須田城主の子孫とも云われている。昔刀剣・槍類が多数あったと云われ落武者の隠遁集落の感じで伝えられている。

    ○堤 大谷地留池(堤)沿革
 大沼郡逆瀬川村堰下灌漑反別は300町歩として,関係村落8ケ村に渉り(佐賀瀬川村を含む)該水源に罹る山林濫伐し遂に森林樹立薄きに傾き,為に水源枯渇して寛政年間の頃より非常に用水欠乏し故に検地の派遣を請へ,灌漑排水を執行せし事往々之有りしが,累年田地早害に罹るもの夥しく水下一般困難を極む。有志之を憂へ之が救済を企図し,新屋敷村肝煎武藤彦右衛門・立行事同山口長左衛門・下小沢同渡部平右衛門の3名発起し留池築造の議を起こし,其の築造の地を選択するに当り,大沼郡軽井沢村端村にして小字大谷地と称する7戸の部落は地盤窪地にして且つ広濶,左右に山を聳へ留池築造地として屈竟の地域なるを以て,之れを候補地と定め該部落の人民に懇談して曰く惟うに本部落は山間渓谷に存在し穀菜挙がらず生計極めて不如意なるは言う迄もなし,故に本部落土地区域を以て逆瀬川堰下旱害救済の為に灌漑補助水の溜池を築造せん事を切望するにあり。深く将来を慮り之れを肯諾せられたし,其の代償としては現在の人口に対し1人に付,米扶持即ち2俵1斗宛合計58俵2斗,永遠水下より供給すべきにより,本部落の家屋を挙げて他に移転し田畑宅地一切を譲与せん事を請うというにありて勧誘し屡々懇諭に及びたるに,右の条件を以て漸く承諾


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