新鶴村 地名の由来 -074/079page
が発掘されており,付近はこの頃(5〜6世紀古墳時代)より開拓され豪族が定着していたと云われている。
権現堂には,安永5年(1776)の湯殿山供養の古碑がある。古墳は発掘され現在は畑地となっている。見世鳥(みせどり) (現 阿久津西)
家ノ西の西佐賀瀬川流域の北側,現在のJR只見線路付近。欠ノ下(かけのした) (現 阿久津西)
見世鳥の北側。現公用地JR只見線路両側。三百苅(さんぴゃくがり) (現 北三百苅)
現中学校の西方欠ノ下の北,水不足地帯で稲のできがあまり良くなかったらしい。大正初期北三百苅と改称された。鼠 喰(ねづみくい) (現 阿久津西)
開田初期には鼠が多かったらしい。大正初期広町になり,平成初期に現在名となる。
西は立行事境となる。日照田(ひてりだ) (現 阿久津西)
鼠喰の北,北は立行事に接する。水不足でいつも日照りのようであったために,この名がつけられた。扇増堰(せんぞうせき) (佐賀瀬川水系)
集落西,佐賀瀬川よりの取水口で集落西一帯の用水を取水する大堰。佐賀瀬川が東に向かって耕地が扇形に広がる場所にあるので其の名が付けられた。防火用取水口 (佐賀瀬川水系)
居住地最西端の佐賀瀬川より昭和30年代に,冬期間集落防火用水のために造られた。新屋敷分水堰 (佐賀瀬川水系)
佐賀瀬川新屋敷堰より梁田南東より分れて阿久津集落西,北寄りの高台に利用されるもので二分の権利を有する。山ノ神堀(やまのかみぽり) (用水樋)
新屋敷分水堰より立行事集落内を通り阿久津集落南西に至る,集落一帯の生活用水・防火用水の水路となっている。万七水道(まんしちすいどう) (堀)
牛川堀開削当時は集落西堀より樋で通水されていたが牛川堀の流れが悪くなるので直接取水されるようになった。集落中心部の生活用水,防火及び水田用として広く利用されている。村中水道(むらなかすいどう) (堀)
この堀は元村西水路より導水されていたが万七水道と同じく水門径が制限されている。村中生活用水・村北農業用水。