新鶴村の文化財 -002/027page

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弘安寺銅造十一面観音 及び 脇侍 不動明王・地蔵菩薩立像

昭和3年4月 国重要文化財指定
所在地 新鶴村大字米田堂ノ後甲147(弘安寺観音堂)
所有者 弘安寺

「普門山円通院弘安寺観音像 文応元(1260)年 下野国那須郡雲岩寺ヨリ厳知卜云ウ僧来タリ 一宇ヲ結ビ中田庵卜号ス 弘安二(1279)年 本村ノ住富塚伊賀守盛勝臨済宗二帰衣シ 厳知ヲシテ済家シ 境内ノ観音堂卜年号ヲ取り普門山弘安寺卜号ス」

とある。

此の頃大沼郡佐布川村(現会津高田町)に江川常俊という豪農が住んでいた。土地の人々は長者と呼び、多くの土地山林を持って何不自由のない生活であったが、この常俊夫婦多年にして子宝に恵まれなかったので、当時会津の霊場である雀林法用寺の十一面観音に祈願した。

その夜、妻は菩薩に揺り起こされる夢を見て孕み、一人の女子をもうけた。夫婦の悦び、一方ならず。常姫と名付け、乳母をつけて大事に養育した甲斐があって、眉目秀麗な姫に成長した。

文永10(1273)年には早くも17才の春を迎え、その御礼参りにと、法用寺の虎の尾桜(会津五桜の一つ)の満開を期として姫を美々しく着飾らせ、母自ら供をつけて参詣した。

その頃、中田舘主富塚伊賀守盛勝も、今を盛りの花を観ようと、斉藤、国分、原田等の腹臣を倶して法用寺に参詣に来た。盛勝二十才。容姿端麗の若殿と会った常姫は、屋敷に帰り恋の病床に臥す事となった。

常俊夫婦は色々と手を尽くしたが、文永10年」8月17日遂に黄泉の客となった。夫婦はテイ涙悲泣して止まなかったが、やがて意を決して、常姫の菩提を弔う為に常姫と等身大の観音尊像を鋳造する事とした。長者邸から十七頭の牛の背で七日間、銅を長尾山(今の奥院)に運搬したと言う。しかし、全財産を挙げた工事もみちのくの片田舎で技法もよく分からないままに着手したので、容易に鋳型にはまらず困難を究めた。その時飄然と白衣の聖人が現われ、鋳型造りの技法や熔解の術を教えてくれたと言う。

 十一面観音 像高6尺1寸7分

 脇侍右地蔵菩薩 像高3尺1寸

 脇侍左不動明王 像高3尺1寸4分

この三尊共に鎌倉時代の鋳像として、東北地方に於ても珍らしい像であるといわれる。

会津三十三観音の三十番札所であり、会津三コロリ観音でもある。


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