新鶴村の文化財 -022/027page

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牛川堰堀

所在地 新鶴村大字鶴野辺〜会津坂下町大字牛川
管理者 牛川土地改良区

この地方の農民は、古くから盛んに田畑の開墾を行なっているが、水利不便のため相当苦しんできた。

牛川堰は、寛永元(1624)年に牛川組郷頭佐原吉左衛門光垂がこの地方の開田を志し、堰の開堀に着手したことに始まる。光重病没のため一時中止となったが、明歴2(1656)年に至って、吉左衛門光息が父の遺志を継ぎ、藩へ援肋を願い出た。しかし、時の代官丸山弥次衛門、長山藤兵衛より「藩では援助ができない」と申し渡されたので、私費で人夫350人を雇い着工し、2年後には約七割程度の工事ができた。そこで再度藩に願い出て、人足一万人を与えられている。(この時は完成の見通しも立ち、落としても協力せざるを得なかったと言われている)

この工事で家屋を二分されたりして反対するものも多かったが、明歴4(1658年)年4月、遂に完成した。父光重の発願より33年目に当る。

《特色》

 1. この堀は、上流桧ノ目新田より下流の牛沢の方が、6メートル程高い地点にある。延長11.232キロメートル。低い地点より高い地点に通水するために、掘込みを深くすると共に堀幅を狭くして水圧をかけるようにしてある。

 2. 赤沢川、佐賀瀬川の下をサイフォンの原理「地獄樋」を利用して横断している。

 3. 通称土砂排きと呼ばれる横出を多く(6ケ所)作ってある。是はただ単に排水路としてあるだけではなく、水門を開くことにより下流の水害を防ぐことにある。

 この様な特色を持つ用水路は、我が国でも2ケ所(他の1ケ所は九州)しかないと言われている。

桧ノ目新田の堰口
桧ノ目新田の堰口

阿久津の「地獄樋」
阿久津の「地獄樋」


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