新鶴村の文化財 -021/027page
新屋敷一里塚
昭和53年2月 村重要文化財(史跡)指定 所在地 新鶴村大字新屋敷字稲荷宮甲2007 管理者 新鶴村 道は人々の往来、物資の輸送、文化の伝播等になくてはならないものであり、地域の生活文化そのものとも言うべき文化財である。人々の生活の変化と共に道もまた移り変わり、古い道筋は人々の記憶から失われようとしている。
江戸時代初期、幕府は全国の主要街道に、江戸日本橋を起点として一里毎に道の両側に塚を築いた。これが一里塚である。諸藩もこれに習い、各々の居城地を起点として、領内の主な街道に一里塚を築いた。
会津においては、慶安2(1649)年、幕命により保科正之が会津五街道(白河、越後、二本松、米沢、下野街道) 外二五の脇街道を調査報告し、18年後の寛文7(1667)年、若松大町四ッ角の札の辻を起点として築いた。その一里塚の一つがこの塚である。古老の話では、西にもう一基あったとのことである。
この一里塚が若松より柳津を経る越後街道のものか、坂下から高田、大内宿を経て江戸へ通じる下野街道にあったものかは詳らかでない。
周囲30、8メートル、高さ約2メートル。以前は榎の古木があった。