鮭立磨崖仏 - 009/135page
がインド各地にひろがるにつれて、インド西北部のガンダーラ地方でヘレニズム文化の影響をうけて仏像がつくられたといいます。またそのころ、インド中央部マトーラ地方でも、土着文化により仏像がつくられるようになったともいいます。材料は石が多く磨崖仏も多く残っていて、バーミヤンには高さ五十五メートルという大仏もありますが、残念なことに回教徒の破壊をうけて顔面がありません。
絲綢の道、現代風にいえばシルクロードは東から絹を運ぶと共に西から仏教を伝えた道でもあり、いわゆる北伝仏教はこの道にそって中国、朝鮮、そして日本へと伝えられました。敦煌の莫高窟、炳霊寺、竜門、雲岡等の壮大な磨崖仏はよく見られると思います。四川省大足県には五万体ともいわれる多数の仏像があります。
朝鮮では、百済時代に作られた忠清南道雲山面の磨崖仏、新羅時代の慶州の石窟庵等が有名です。
日本では、奈良時代に大和を中心として修験者によって作られたといわれています。しかし、彫られた場所がら風雨にさらされていたみがひどくなっているようです。平安時代になると各地で磨崖仏が作られるようになりました。このころ作られた滋賀県の狛坂磨崖仏は、七メートルの岩に約三メートルの如来像を中尊とした三尊像が彫られています。鎌倉時代になると仏教が一般民衆の中にとけこんだので、費用のかからない石仏が盛んにつくられ磨崖仏も多数つくられましたが、規模は小さくなり作品の質もおちるようになりました。福島県では小高町泉沢の薬師堂石仏の如来坐像が約千年前、徳一大師によって作られた