鮭立磨崖仏 - 017/135page
静止状態になってしまい、飢饉等があるとそのために減少した人口はなかなか回復しないのです。
では会津藩の状態はどうだったのでしょうか。グラフに見られるとおり初期は新田が開発されて人口は増え続けました。藩の家老が『慶安元年より元禄元年までの四一年間、潮がさすように民勢がさかんになった』と述べている状態でした。このような人口の増加は各藩とも同様で、南部藩では寛文九年(一六六九年)までの三十四年間に、二五%もふえています。
それでは金山谷の状況はどうでしょうか。寛永十八年の金山谷の大凶作で人口が半減した村の例をみると、慶安年間に回復し元禄期には倍増しているのです。しかし、それ以後は人口の動きは止まってしまい、会津藩の推移と同じ状況を示しています。
史家は人口の増えない理由として年貢の増加と凶作を挙げています。