鮭立磨崖仏 - 018/135page
2 年貢の増加
封建時代は農業が経済の基盤でした。武士の給料は何石取りと米で表示されたように『農は国の基』だったわけです。しかし、人口の増加が一定限度に到達してしまうと、大工業の無い産業構造では、国民の生活はしだいに苦しくなります。江戸時代中期以降になると太平の世がつづいて、商品の流通による生活の向上、江戸における消費生活が藩の財政を圧迫し、消費するだけの武士階級のつけは結局領民にかけられることになり、年貢率は次第に高くなります。
もともと家康の農民政策は『郷村の百姓は死なぬよう生かさぬようと合点致し収納申し付け』とか、『余らぬよう不足なきよう治むること道なり』とかいうのが基本的態度でした。四公六民といっても実際には糠役、藁役といったいわば付加税がかかるので六公四民の高率であり、そのうえに例えば戸数割、宅地税、門税、かまど税、窓税、竹藪税等、増税の名目はいくらでもつきます。
そこで百姓を胡麻の油に例えるようになり『搾れば搾るほど出る』などと非情なことをいいますが、『泣く子と地頭に勝てぬ』という諺どおり、反抗すれば刀を抜かれてこの世とおさらばになりかねません。
それでも百姓騒動はたびたびおきました。
年貢の割付帳をみると持高は十数石あっても、年貢率が八割という百姓もありました。これではいくら持高が多くても手元にはいくらものこらないので、生活程度は下の下というのもありました。
民話に猿に毎日卵をおどしとられた雀が残った卵をだいて逃げてゆく話があります。
江戸時代、貧困、借財等のため失踪することを欠落(かけおち)といいますが、耕地を