鮭立磨崖仏 - 021/135page
捨てて他領へ行ったところで、更によい生活が得られる保証はありません。流民になるか奉公するかです。捨てられた耕地は、その村で耕作や年貢の義務を負わされます。また一ヶ村、二ヶ村、或はもっと広い地域の農民がよそへ逃げることもあります。こうして村が無くなった例もあります。
また年貢率が決められていると、不作であってもその率は納めなければなりません。年貢を納めるため農地を質にだすことがありますが、質に出すと受け出すことは困難です。
こうしてついに持高がなくなった例はよくみられます。
3 飢饉の影響
俗に二十年に一度の小飢え、五十年に一度の大飢え、といわれるように江戸時代の三大飢謹は享保・天明・天保期におこりました。天明という年号のときは災害が相つぎましたが、特に天明三年の飢饉は大きな被害が出ました。春から天候が不順だったところに浅間山が噴火し、その被害は死者二万人といわれています。現在の三島町の、大谷村の名主の書いた「周弼一代記」には「六月廿七日、天が赤く光り廿九日夕方から白い灰のような砂がふり、七月一日朝までに雪のように降った」と記されているといいます。その年は出穂がなく青立ちになりました。飢饉の影響はすさまじく全国で約百万人の死亡者が出ていますが、冷害に弱い関東、東北地方は特にひどかったのです。
会津藩では元禄期にくらべて約四万五千人の減少です。二本松藩の記録に、「冬を越せず多くの者死せり、三月現在針道組における死者六百七十人、ほか欠落四百五十人、世人こ