鮭立磨崖仏 - 025/135page
天明辰年差引拾五軒減
一、人数 三百武拾四人内百七拾壱人男
百五拾三人女
右同断辰年差引五拾人減
一、馬拾六疋
右同断辰年八疋減
とあります。飢饉の後遺症はすさまじく、名主が村勢の衰えを嘆いている様子が目に見えるような記録です。
天明の飢饉の五十年後には天保の飢饉がやってきます。天保四年(一八三三年)山間部では殆んどの村で皆無作、平地でも二分作、三分作程度でした。大塩組の記録に「欠落四十三戸、死失二十人、身売り三十九人、生活困難百十五人」とあります。山入村の十二月現在の報告には「五年二月まで食いつなげる者十四軒、四月まで五軒、