鮭立磨崖仏 - 026/135page

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六月まで三軒、秋まで七軒」とあります。「筆をとるのもほほに涙の紙に落ちるのをおぼゆる」と書いている人もいます。

 このような惨状をみて岩淵家の祖先である修験者が、五穀豊饒と病苦の退散を祈って磨崖仏を彫ったと伝えられています。だから彫られている仏像は後で述べますが、修験的、密教的で現世利益を願うものが多いのもうなづけるわけです。

 

ここで、修験道について簡単に説明してみましょう。

古代から東洋でも西洋でも山岳は神が宿る神聖なものと考えられていました。奈良時代以後は山にこもって修行する者があらわれ山岳修業の結果霊力、呪験力をつけたというようになりました。

 平安時代以後は全国各地の主な山岳に修行者の集団が作られ、修行者は山伏とか修験者とかよばれるようになりました。江戸時代になると町村に定住してうらないや加持祈祷を行う者もでてきました。豊作や、病気の平癒・旅行の安全を祈り家相の吉凶、厄除け、星祭り、方位の除災などを行いました。

 更に薬草のこともくわしく健康法、延命法、衛生法等もおこない、医者代わりに応急手当や家庭療法もやりました。こうして修験の本領は庶民の苦しみを除き病苦を救うことにありました。その教理は仏教の教えに基づいて仏、菩薩が人々をすくうためにいろいろな神の姿であらわれたという説をとり、神仏習合の教えと


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