私たちの郷土 昭和村 - 001/099page
T 昭和村のあらまし
1.村の移(うつ)り変(か)わり
昔(むかし)の昭和村
村内の各地(かくち)から,縄文土器(じょうもんどき)の破片(はへん)や石斧矢尻(いしおのやじり)などが発見(はっけん)されたことから,この昭和村に人が住(す)み着(つ)いたのは,今から約(やく)八千年前とされています。その後,「えぞ」といわれた人びとが住み着き,鎌倉時代(かまくらじだい)には山ノ内一族が横田(現金山町)に城(しろ)を築(きず)いて,この辺(あた)りまつりごと(政治(せいじ))を行いました。
その後,中央の幕府(ばくふ)のカが強くなるにしたがって,そのカが辺(へん)ぴな山村にもおよび,昭和の地(ち)は会津(あいづ)百二十万石(ごく)の領内(りょうない)にくみこまれました(蒲生(がもう)時代)。そして,江戸(えど)時代になると,江戸幕府直轄(ちょっかつ)の「お蔵入(くらい)り」と呼ばれるようになりました(保科(ほしな)時代)。
学校の制度(せいど)ができたころ
明治(めいじ)5年(1872年),国のきまり(学制発布(がくせいはっぷ))によってどこの市町村にも学校をつくることになり,村(当時(とうじ)は野尻組(のじりぐみ))にも明治6〜7年にかけて,お寺などを借(か)りた小学校がつくられました。しかし,実(じっ)さいに学校に行ったのは,男子のかぎられた人だけで,女子はほとんど行きませんでした。家の手伝(てつだ)いやお金がかかること,学問などはいらないと考えられたことが主な理由のようです。
このころは,江戸から明治という新しい世の中に変(か)わったばかりで,戦(いくさ)(戊辰戦争(ぼしんせんそう))からの混乱(こんらん)も落ち着かないまま,農作物の凶作(きょうさく),経済(けいざい)