私たちの郷土 昭和村 - 002/099page

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の混乱(こんらん),新政府(しんせいふ)からだされるいろいろな命令(めいれい)などで,今まで,数百年間平穏(へいおん)に暮らしたこの山村も,かつてない目まぐるしい暮らしをおくることになりました。

 野尻(のじり),大芦(おおあし)村の誕生(たんじょう)

 それまで野尻組といわれていた9つの村は,明治22年(1889年)の国のきまり(市町村制)にそって,野尻村(小中津川村,下中津川村,野尻村,松山村)と,大芦村(大芦村,両原村,喰丸村,佐倉村,小野川村)の2カ村となりました。このころの村の人びとの仕事は,ほとんどが農業で,わずかに木地(きじ)や木炭(もくたん)の生産にたずさわる人がいたということです。

 また,その頃(ころ)から村外への出稼(でかせ)ぎが多く,野尻村では98名,大芦村で75名が栃木県(とちぎけん)へ行っているという記録(きろく)が残されています。

 学校の制度も大きく改(あらた)められ,小学校は尋常(じんじょう)と高等(こうとう)に分けられ,それぞれ4年間ずつとされました(小学校令(れい))。そして,尋常科はすべての国民(みん)が学ぶこととされました(義務制(ぎむせい))。喰丸(くいまる),大芦小学校が新築(しんちく)され,下中津川(しもなかつがわ)小学校も明治29年(1896年)に建(た)てられています。

 明治34年(1901年)には,下中津川小学校の分校だった野尻小学校も独立(どくりつ)し,校舎(こうしゃ)が建てられました。しかし,両村ともに高等科までは手がまわらず,もっと勉強したい人は,川口(かわぐち)村(現金山町)まで親類(しんるい)や知人を頼(たよ)って行かなければならなかったのです。この不便(ふべん)さは新しい昭和村が誕生するまでつづくことになります。

 昭和村の誕生

 野尻村,大芦村として,それぞれ別々(べつべつ)に歩(あゆ)んできた両村に,合併(がっぺい)考え方が起(お)きてきました。それは,学校にかかる村の経費(けいひ)を減(へ)らすこ


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