カラムシ資料集その1-004/028page

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これ等の産物中代表的なものは麻類と養蚕で、近世初頭には麻が優位にあり、幕末に下るにつれて養蚕が麻を凌駕した。
麻の生産は越後緬の原料として出されただけでなく、伊北郷で織った伊北布として中世より有名となり、蒲生氏郷の買上げをすすめ又布役として年貢の対象となったのは、慶長三年とも元和三年とも伝えている。
ところが下がって慶応二年(一八六六)の黒谷組十四各ケ村の現金収入と支出の調べによると収入合計二千四百三十二両のうち、絹糸真綿代で千五百五十二両を占め六十四%に達しているのに対し、麻や製品の晒五郎丸・青苧・下麻代で七百十二両で、絹糸の半分にしか達していない。こゝに只見町の重要産物の序列が入れ変わったことが示され、時代の推移をあらわすのである。
魚沼の風土が生んだ麻織物と「北越雪譜」林明男 一部抜粋
直江兼続公は領民達への教訓書と農事暦を「農戒書」として残しているが、それによると正月には糸をとり、苧をひねり、着物を作れと言っており、長い冬の季節を無駄なく油断なく過すよう訓戒している。さもあろう謙信は上洛の都度、その生産された麻布を信長や朝廷に献上したり大阪堺方面の交易に使用し武器や日用雑貨を入手する方便にしている。兼続公はさらに麻織物は田の収穫物米にもまさる製造品であるとその農戒書にうたっており、越後の農民(士卒)の仕事の半分は田畑、半分は麻織物と定め、殖産に力を入れていたのである。
越後縮の創始から最盛期のころ
縮の出現によって麻布の需要は前にもまして大いに伸びた。その縮の技法の創始は寛政十二年(一八○○)掘次郎将俊であると古記録は伝えている。そのもとは播州明石縮であると考えられ、将俊はその明石の出身であり、明石地方では、初め苧麻と絹の交織物を作り、やがて絹糸に強い撚りをかけて縮ませて、産地の名を冠して明石縮となしたと言われており、将俊はこの技術を越後の麻に応用し、ついに現今の縮の原型が出来た。小千谷縮の産地小千谷市では将俊を別称明石次郎と呼び、明石堂を建て、その業績を讃え祀っている。
特に越後の麻布に幕府御用の声がかかり、元禄、宝永の頃よりは反数までも指定されて納入したと言われており、武士の礼服の生地として定着し、江戸城へ登城する正式の服装と定められ、莫大な数量を必要とするようになる。麻裃は上級社会に結びついてその需要は連綿と続くが、その反面、地元の生産者は細心の注意を払って規格、納期等を順守せざるを得ない状態となっていった。さらに又、二千本を越える経糸数の布まで織られるようになり、絣の技術も大幅に進歩し、小絣系の模様まで出来るようになり、公称製造量が二十万反、それに加えて、個人で流通機構に流すもの、十万反、計三十万反の麻織物がこの魚沼の郷より出荷されるようになったのは天明年間と言われている。
田子倉村『御手鑑』 一部抜粋
「朝(浅)草峠の事。伊北と越後の間に御座候。六十里越と申すは山道六里、此の道馬足相叶わぬ難所に御座候。御留物、女・巣鷹・蝋・漆・鉛・紙・駒・熊皮・〆八品…」
叶津村『慶応三卯年九月 往来入人改帳 叶津ロ関所』 一部抜粋
金山谷へ青苧買いに参り候由 小千谷町商人久吉・富吉
青苧の生活文化史 菊地和博 一部抜粋
「青苧神社」の信仰
仙台市宮城野区岩切青苧山(県民の森内)に「青苧神社」がある。「神社畧記」によれば、この神社は仁寿2年(852)に都人の穂積保昌がこの地に至って麻の栽培を人々に教え、自ら尊崇する日月星の三光、すなわち天照大神、天之御中主神、月読神の三神を岩窟に奉祀したことに始まる。古くは「青苧岩戸三光宮」又は「青苧権現」と称したというが、いつの頃から「青

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