カラムシ資料集その1-013/028page

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民俗
寝具と就寝習俗の変還について 矢萩昭二 一部抜粋
麻と苧麻(カラムシ)
麻と苧麻は云うまでもなく、広く各地で栽培され、昔から衣服の材料となったものである。夜着そのものの素材として、綿かわりになるオクソも麻引きのくずから出たものである。
麻畑のことを苧坪といい、雫石地方では昭和30年頃まで栽培されていた。夏の仕事着や股引きなどをつくったが、水を含まず、乾きやすく、しかも丈夫である。このことから麻は庶民の衣生活の基本になる繊維であった。
木綿が普及した明治後半から大正昭和にかけても以前と麻を常用している地域があり、麻の栽培が全面禁止になった昭和20年後半になって、やっと木綿に切り替えた。
麻は八十八夜に播種(糞とともに播く―ぼった播き)し、間引きくりかえし、二百十日頃までに収穫をする。晴天の日を選んで麻ひきをする。根を切り、葉と末梢はハウチ(包丁のような木の刃)で打ち落とし、地面に広げて乾燥させる。
この後、麻蒸し桶(カプセとかキッツ)に麻を入れて蒸す。一時間位たって、柔らかくなったものを池や苗代に草を溜めておいて、そこに漬けておく。(二昼夜、カラムシは5〜7日)外皮の部分がうるおってくると茎から皮を剥ぎ取り、これをまた、束ねて4〜5日位に漬けて腐らかせる。
再び、水から取り上げた皮をオヒキコ台の上でオヒキコという鋼の刃で表皮をかきなでながら皮を引き、外皮を取り除く。こうして麻糸になる素材ができる。後は苧んで、撚りをかけて糸になるのだが、このとき出るくずをオクソといい、夜着に入れるものである。勿論、そのまま入れるのでなく、繊維がほぐれて互いにつながり、綿状になるまで何回もたたくのである。本当に手間のかかる仕事であった。
一方苧麻は、麻より幾分こまく、褐色を帯びているが、繊維は麻より強靭で、良質の繊維がとれる。皮を剥ぐときは麻のように水につけず、生のまま皮ひきをやる。夜着に仕立てることはなく、漂白して、戦時中は海軍の制服になったり、高級織物の素材として使われた。
赤苧(アカソ)
山形村や大野村等ではくっちえともいう。高山彦九郎にみえるくっちえと同じものだろう。ただし、くっちえとは「くっちえかぶだ」という表現があるとおり、植物が蕪ごとに密生している状況を(山形村長内三蔵氏御教示)捉えているから、そのように密生するアカソなどの繊維植物を指しているとおもわれる。
アカソはどこでも普通にみられる植物で、特に地面が少し濡れている処とか、湿地帯の土手のほとり辺りに植生するものである。
山形村では、これを綿草と呼んでいる。古くから利用されていたと思われるが、高山彦九郎「北行日記」の記述をそのまま信じるとすれば、このアカソの皮を裂いで、それを叩くかして柔らかくし、さらに編んで寝具に用いていたと考えられる。しかし、実際に聞き取りした段階では綿にしたというから、その用途は様々であったろう。
長内三蔵氏は、自宅の裏山に自生するアカソを取ってきて、皮を剥ぎ、それを揉んでたたいて綿にした。実物をみせてもらったが確かに柔らかく、色は黒いが綿である。丁度、おくそ綿と同じ感覚である。このようにして、フトンひとつに入れる綿をつくるにはどの位かかるであろう。気の遠くなるような話である。一口に叩くといっても一回だけではない。何回も何回も叩いと繊維がつながらないからである。つながらないと綿にならない、そして乾かさなければならない。実に根気のいる仕事であって、簡単にできるものではない。おそらく、布団に入れるだけの量を確保するためには、他の繊維植物やクズ綿などと混ぜて完成させたと思われる。
このような古くからの「綿つくり」が、戦時中、衣服にもこと欠く状況の

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