昭和村 あんじゃ こんじゃ -034-035/057page

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[ 伝 説 ]

 人の有るところに物語は生まれ、長きにわたって受け継がれてきました。
昭和村にも地名に由来するさまざまな伝説が残っています。
哀しくも美しい、あるいは不可思議な物語それぞれ。

イラスト 1

【美女峠】

 鎌倉時代の話である。目指左右衛門尉知親という侍が、平維盛に長く仕えていたが、寿永の乱のあと平家が滅びて浪人となり、落ちのびて奥州に下り俎倉山の麓、野尻村の横深というところに庵を結んで隠れ住んでいた。

 この侍には高姫という、みめ麗しく心優しい十八になる一人娘がおり、峠の向こうの中向・沢入り兎久保には同じ境遇の中野丹下という年の頃二十三、四の若侍が住んでいて、二人はいつしか馴染みとなり愛し合うようになった。

 丹下は夜ごと峠を越えては高姫のもとに通ったが、ある時丹下がしばらく高姫のもとを訪れることができなかったところ、姫は淋しさをこらえきれず、ひとり峠まで足を運んではむなしく庵へ帰る姿が幾日も続き、里人の心に哀れと焼きついた。そこからこの峠は 「ビジョンゲ(美女帰り峠)」 と呼ばれるようになったという。

 のちに二人は夫婦になり、世をしのぶ身ながら夢のような日を送ったが、平家の残党狩りの追っ手が回ってきたので、兎久保の庵で心中自害し果てた。建暦二年の六月のことだったという。

【花坂の外記】

 下中津川に人が住み始めた頃、この地に中村賀茂・沖の織部・宿の原雅楽・花坂の外記という四人が住んでおり、里人には下中津川の四座と呼ばれていた。東の小高い丘は花坂といい、その屋敷の主・栗城外記が四座のなかでも隆盛をきわめており、花坂の外記さまと呼ばれその名は奥州白石にまでとどろいていた。

 その頃、白石には年を経た大蛇が住んでいたが、その噂を耳にしてそんな大尽のところに住んでみたいと思い、一夜にして山河を越え花坂の屋敷にやってきた。

 長い旅でもあったので、蔵の前の石を枕に寝入ってしまったところ、朝になって奉公人に見つかってしまい、頭を打たれて殺されてしまった。大蛇の死骸は宿の原の川縁に運んで埋め、その上に杉を1本植えた。

 それからというもの、この屋敷には不吉なことばかりが度重なってついには人が絶えてしまったという。

 大蛇を埋めたあとに植えた杉は大木に育ったが、明治の初めのころに伐ってしまったという。

【昭和村の生石様】

 今の野尻村小田垣に流れてくる谷川に、昔、にぎりこぶしほどの石ころが落ちてきた。それには馬の蹄のあとがついていたので、村人たちは神様が乗ってきた馬だろうと思った。

 それから小さな石ころは、不思議なことに少しずつ成長し、秋の紅葉が散るころになるとむくむくと動き出すという。石が水の神であることを名乗るので、村人は生石様と呼んでまつった。今では5メートルほどになっている岩盤の川床が生石沢と呼ばれ、生石祭に若い乙女が白足袋に美しい着物を着て川床に座ると、幸せを授けてくれるという。

【桜木姫と紅梅御前】

 治承四年、宇治川の戦に敗れ命からくも逃れた高倉宮以仁王は越後に落ち延びることになり、中仙道から上州沼田を経て尾瀬から下郷・大内宿に入った。橘諸安公の娘・桜木姫と高野大納言俊成公の娘・紅梅御前は数少ない家来を共に京から王を迫ってこの地に辿りついたものの、恋しい人はすでに越後へと向かってしまったあとだった。身のおきどころなく畑小屋集落にしばし滞在したがどちらも間もなく亡くなり、御前は下郷町戸赤の渓流沿いにまつられ、桜木姫の墓は大内集落のはずれに今もひつそりと残っている。そこから畑小屋の山は御前ヶ岳と呼ばれるようになったが、畑小屋の鎮守は以仁王の父・後白河法王を祀ったものという。

イラスト 2


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