わたしたちのきょう土 下郷町-089/116page
イ.弓田円蔵さんの努力
弓田円蔵さんは、1814年に塩生の呉服商の家に生まれました。円蔵さんは、倉村や楢原の人々の苦しい生活を見て、何とかこのあれ地に水を引いて田ができないものかと考え、役所に何度も足を運び、かたい決心で村の人々と相談を重ねました。そうして、工事費2500両(今のお金で約1億1250万円)を自分で出そうという円蔵さんの熱意に動かされて、村の相談がまとまり、1863年、工事にとりかかることになりました。
ウ.苦しい工事と完成の喜び
工事で一番たいへんだったのは、長野向かいの取り入れ口から今の八幡橋までの2kmの間でした。ここは岩のがけが多く、岩をほって水路をつくらなければならないからです。
円蔵さんと村の人々は、水がうまく流れるよう、夜にはちょうちんを使って高さを正しくはかりました。岩のがけに木を積んで燃やし、かたい岩をもろくして、石のみで岩をほり進めました。雪どけ水や大水のために、工事のとちゅうで水路がこわされたこともありました。そのため、たった2kmほり進むのに8年もかかりました。
円蔵さんは、くじけそうになる村の人々をはげましながら、血のにじむような苦心のすえ、のべ20,994人の人手と21年の年月をかけ、ようやくせきを完成させました。
初めて大川の取り入れ口から水を引き、せきに水を流した日は、村中の人々がせきのほとりに立ち、完成を喜び合ったということです。
▲昔のおもかげをのこす円蔵ぜき
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