相馬市市勢要覧 -042/050page

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相馬・ロマン
HISTORY OF SOMA

相馬復興の恩人

二宮尊徳翁

  江戸時代の後期、冷害による凶作が続きました。 中でも、天明・天保の大ききんで、相馬領内の田畑が荒れ、 人口は最盛期(約九万人)の約三分の一に激減するなど、 かつてない大被害を受けました。

  この荒れはてた大地を緑豊かな耕地に、また、 冷えきった民・百姓の心を人間性豊かなものにかえていったのが、 二宮尊徳翁の訓えである「興国安民の法」(御仕法)でした。

  御仕法は、相馬では弘化二年(一八四五年)に 坪田・成田両村で初めて採用され、以来、明治四年までの 二十七年間に、領内二百二十六ヵ村のうち百一ヵ村で実施されました。 そのうち五十五ヵ村で完成をみています。

 当時、相馬藩には藩主の充胤をはじめ、藩主の 師・慈隆、家老の草野正辰、池田胤直、熊川兵庫 ら、御仕法の良き理解者がいました。また、富田 高慶、斎藤高行、荒専入らの藩士が尊徳翁の下で 学んでいました。これらの人々が、力を合わせて 完成させたのが相馬の御仕法でした。御仕法を実 施した所は全国に六百カ所ありますが、最も理想 的に行われたのは相馬である、といわれていま す。

 偉大な農政家であり、村おこしの先達である尊 徳翁が他界された時、相馬藩では、翁の遺髪を中 村域の近くの愛宕山にねんごろに葬りました。そ の後、城跡の一角に翁の座像が建立され、偉大な 尊徳翁の訓えを後世に伝えています。

相馬市上空から

二宮尊徳翁像

愛宕山史跡
 伊弉再尊(いざなみのみこと)と火産霊尊 (ほむすびのみこと)を祭神とする愛宕神社 をはじめ、相馬藩内子弟を教育し、多くの俊 才を輩出した金蔵院、十九代藩主忠胤が武運 長久を折って建立した観音堂、出羽の名工、 上杉主殿頭(とものかみ)作の地蔵堂などの史跡がありま す。また二宮尊徳と慈隆の墓もあります。

愛宕山史跡

二宮尊徳と慈隆の墓


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