新地町の文化財ご案内 -002/017page

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縄文遺跡

   
名 称「新地貝塚・附手長明神社(つけたりてながみょうじんしゃ)跡」
所在地小川字貝塚西
昭和5年2月28日 国史跡指定

概 要

 縄文時代の一部中期を含み、後期から晩期の内湾性貝塚。鹿狼山の麓から東方に のびる丘陵の先端、標高10メートルあまりの台地(現況畑地)にあり、海岸まで約2キロメートルの地点 にある。

 仙台藩の儒学者佐久間義和の「奥羽観蹟聞老志」の中に、"昔鹿狼山に手の長い神が住み、 その長い手を海までのばして好きな貝を取って食べ、殻(から)を捨てた所が貝塚になった という伝説が紹介されてあることで広く知られており、相馬中村在住で奥羽人類学会地方委 員として相馬地方の史跡研究を行っていた舘岡虎三により紹介され、明治23年(1890)に若 林勝邦、大正13年(1924)に山内清男、八幡一郎等の人類学者・考古学者らの手で部分的に 発掘され報告された。

   出土品は、打製(だせい)石器、磨製(ませい)石器、石鏃(せきぞく)、石匙(せきひ)、石剣、凹石(くぼみいし)など、また骨角器としては日本 最初の報告となった鹿角製ヤス、鳥骨製紐飾、貝輪など、とくに土器は磨消(すりけし)縄文にコブ付土 製器、土偶など多数出土し、仮称であるが、「新地式土器」と名付けられ、東北南部後期末 の標式土器に目されている。

 また、貝塚の北辺の台地には、「山海道遺跡」がある。ほ場整備事業に伴い、昭和50年 (1975)に町教育委員会により発掘調査を行い、その結果縄文時代中期から奈良平安期まで の複合遺跡であることが判明した。出土品は、土師器(はじき)の杯(たかつき)やカメ、高杯、須恵器(すえき)など、また 複式炉も発見された。

          
名 称「三貫地(さんかんじ)貝塚」
所在地駒ヶ嶺宇田丁場・三貫地西
昭和43年12月10日 県史跡指定

概 要

   新地貝塚とほぼ同時代、縄文時代の後期から晩期にかけての内湾性貝塚。海岸か ら約4キロの地点、水田地帯に続く標高10メートルあまりの舌状台地にある。

 新地貝塚とともに明治時代から関心をもたれており、大正時代に山内清男により紹介され た。また、昭和27年に東北地方南部における縄文時代の後期から晩期の編年的研究を行うた


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