新地町の文化財ご案内 -011/017page

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建 造 物

   
名 称「観 海 堂(かんかいどう)」
所在地谷地小屋字桝形
昭和41年4月19日 県史跡指定

概 要

 学制頒布前に設立された共立小学校。

 明治5年(1872)2月に、宮城県に対し字多亘理郡長助役目黒重真は「宇多郡郷学校設立 願書」を提出して認められ、仙台藩校養賢堂教授であった氏家晋を招き、小学校を設立した。

 当初谷地小屋字新地39番地の水戸荘吉宅を假校舎として、氏家普の長男昭磨が代理として 来村し教授に当った。昭磨は当時17歳であった。同年4月に谷地小屋字中島の民家を正式に 共立小学校舎とし、5月に氏家晋が来村して開校式を行った。

 駒ヶ嶺においても、明治5年6月5日に金龍院を校舎として亘理の桑島玄隆を教師に招き 小学校を創設している。

 「観海堂」は、亘理伊達氏の家臣、黒沢清之進の居宅であり、明治初年北海道に移住し、空 家になったものを利用した。平成8年に解体復元を行い、その際梁下より、明和6年(1769) の墨書が発見され、これが当初の建立であると推察されている。



   
名 称「くるめがすりの家」
所在地福田字中里

概 要

 世界的建築家フランク・ロイド・ライトの弟子である遠藤新が設計した民家であ る。

 遠藤新が、知人の小塩完次(禁酒運動、国際平和協会の活動家)の依頼を受け、「洗えば洗 うほど良くなるくるめがすりのような家を作ろう」といって設計し、昭和6年(1931)に東 京都武蔵野市西久保1丁目に建築した。

 小塩氏はこの家で禁酒運動を続けていたが、平成4年6月に94歳で逝去した。遺族をはじ め建築界から保存運動が起こり、町の文化遺産として新地町において保存事業を行うことに なり、遠藤新の母校である福田小学校の傍らに復元建築を行った。

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