わたしたちのまち かしま - 029/072page
八沢浦(やさわうら)の干拓(かんたく)
八沢浦(やさわうら)の干拓(かんたく)が始(はじ)まる前は、この辺りは今の松川浦(まつかわうら)のようなところでした。昔(むかし)から塩(しお)づくりが行(おこな)われたところで、日照(ひで)りの時は「テッカリ千俵(せんぴょう)」と言われ一日に千俵(せんぴょう)もの塩(しお)がとれたので、相馬(そうま)の殿様(とのさま)は、塩(しお)づくりをすすめていました。
明治時代(めいじじだい)になり排水(はいすい)が不十分(ふじゅうぶん)なため、水害(すいがい)を受(う)け塩(しお)づくりも昔(むかし)のような賑(にぎ)わいもなくなり、人々はこの八沢浦(やさわうら)を干拓(かんたく)し水田を作る話が次第(しだい)に持(も)ち上がりました。
明治(めいじ)39年7月11日に左納栄三郎(さのうえいさぶろう)さんと山田貞策(ていさく)さんの二人が八沢浦(やさわうら)を調査(ちょうさ)し、干拓(かんたく)が可能(かのう)との結論(けつろん)になり、明治40年12月9日に干拓工事(かんたくこうじ)が始まりました。
大変(たいへん)な苦労(くろう)をされ明治(めいじ)41年には、水稲(すいとう)の作付(さくつ)けを29.7ヘクタール、明治(めいじ)43年には133.7ヘクタールの作付(さくつ)けに成功(せいこう)するまでになりました。
海水(かいすい)を排水(はいすい)して、水田にする作業(さぎょう)は、今のように機械(きかい)のなかった当時(とうじ)、容易(ようい)なことではありませんでした。特(とく)に海に排水(はいすい)するのが難工事(なんこうじ)で、完成(かんせい)するまでに11名の尊(とうと)い犠牲者(ぎせいしゃ)が出るなど大変(たいへん)な苦労(くろう)の連続(れんぞく)でした。
その当時(とうじ)の人々の苦労(くろう)があって今は、水田290ヘタタール他(ほか)に宅地(たくち)、道路(どうろ)などを含(ふく)めると350ヘクタールの土地となっています。
山田貞策(ていさく)さんは、岐阜県生まれの人で、大変(たいへん)な農地(のうち)を所有(しょゆう)し当時(とうじ)の県議会議員(けんぎかいぎいん)をされていた人です。人々は「山田貞策(ていさく)」さんの偉業(いぎょう)を讃(たた)え、磯(いそ)の上地内(うえちない)に石碑(せきひ)と銅像(どうぞう)を建(た)てました。しかし、戦争(せんそう)中に国に供出(きょうしゅつ)されました。また現在(げんざい)は干拓事務所(かんたくじむしょ)のそばに山田神社(じんじゃ)をまつり、今に引(ひ)き継(つ)がれています。
山田貞策(ていさく)さんの
旧銅像(きゅうどうぞう)
山田貞策(ていさく)をまつった
山田神社(じんじゃ)