わたしたちのまち かしま - 070/072page

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鹿島町の民話(みんわ)


○片葉(かたは)よし

 むかし、上栃窪(かみとちくぼ)の川のそばに、久七(きゅうしち)というじいさまが住(す)んでいたそうな。

 久七(きゅうしち)じいさまには、太夫黒(たゆうぐろ)という雄馬(おすうま)がおってな、そりゃもう元気な手のつけられない馬だったそうな。太夫黒(たゆうぐろ)は毎日のように、にげ回っては、山のおく深(ふか)くにある沼(ぬま)に行って、そこに生える「よしの葉(は)」を食べたそうな。

 なんぼうまいのか、いくらつかまえても、すぐににげて行って、沼(ぬま)の「よしの葉(は)」を食べたそうな。さすがの久七(きゅうしち)じいさんも、これにはまいったそうな。んだども、ふしぎなことに、太夫黒(たゆうぐろ)は「よしの葉(は)」の片側(かたがわ)しか食べねんだと。ほんで、ここの「よしの葉(は)」は片側(かたがわ)だけになってしまったんだと。

 やがて、太夫黒(たゆうぐろ)は「源義経(みなもとのよしつね)」の愛馬(あいば)となって、大かつやくをしたんだと。
 (片葉(かたは)よしは、以前(いぜん)、上真野中学校(かみまのちゅうがっこう)の校章(こうしょう)となっていました。)

鹿島町の民話

○天野(あまの)の羽衣(はごろも)と山下玄昌(やましたげんしょう)

 海老(えび)に天野家(あまのけ)があってな、天野家(あまのけ)は天女(てんにょ)の子孫(しそん)なんだそうな。その子孫(しそん)に「玄昌(げんしょう)」という子どもがおってな、鳥やけものと話をしたり空をとんだりすることができるたいへんなカを持(も)っていたんだと。

 「玄昌(げんしょう)」は、後(のち)に山下に住(す)んで坊(ぼう)さんになって、みんなから「山下玄昌(やましたげんしょう)」とよばれ、いろんな困(こま)った人を助(たす)けてやったんだと。

 あるとき、仙台(せんだい)の松島(まつしま)に住(す)む「雲居法師(うんきょほうし)」と海をはだしでわたることと、空をとぶきょうそうをしたんだと。ほしたら「雲居法師(うんきょほうし)」はダメだったんだげんちょ「玄昌法師(げんしょうほうし)」は山下から海老(えび)までとんでいって、海のうえを歩いで松島(まつしま)まで行ってしまったんだと。まだ「雲居法師(うんきょほうし)」のお寺が火事(かじ)になったときには、自分のお寺の池の水をくんでいっしょうけんめいにお経(きょう)をあげて火を消(け)す手伝(てつだ)いをしたんだと。それはそれはたいした神通力(じんつうりき)だったそうな。

 「玄昌法師(げんしょうほうし)」の持(も)っていた羽衣(はごろも)は、病気(びょうき)の人の薬(くすり)としてせんじて飲(の)ませると、うそこいたようにすぐ治(なお)ったということじゃ。


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