大悲山大蛇物語 - 064/075page
伝説
大悲山大蛇物語の背景前 書
伝説とはそこの土地に深く根ざした物語で、親から子、孫へと、代々に亘り語り継がれて来たドラマである。口承であるから、その途中において、面白おかしく脚色されて来た事は亦(また)いがめない。かかるゆえんをもって、伝説は骨董無稽(こうとうむけい)の物語として一笑に付される。だがその伝説をよく咀嚼(そしゃく)して玩(がん)味すると、その中に一片の真実が秘められている事が多い。このような観点に立ち、大悲山大蛇伝説の背景を探り推測してみる。
一、大悲山大蛇伝説の時代背景
手許(もと)の「宝暦十二壬午年八月十二日写“大悲山大蛇記”編者及び書写人不明〈コピー〉」の書き出しに「時は永正元年(一五〇四)三月とあるが、登場人物が相馬光胤公とあるので、建武年間(自一三三四〜至一三二七)の出来事であったろう。
その頃中央では、後醍醐(ごだいご)天皇の御倫旨を奉じた武士団が鎌倉幕府を倒し、天皇親政の道を開き、建武と改号したが、間もなく足利尊氏(たかうじ)が反逆した。そこで天皇は、義良親王を奉じて多賀城(宮城県)に駐在していた。国司北畠顕家(あきいえ)卿に尊氏討伐の令を下した。卿は勅を奉じ、建武二年十一月、奥州の王朝軍を率いて遠征の途に上る。この中に標葉(しねは)郡(現浪江・双葉・大熊の三町)領主標葉持隆(もちたか)公も部下の将兵と共に参加し、留守の請戸城は、弟隆光(たかみつ)公を将とした留守隊が固めていた。