大悲山大蛇物語 - 065/075page

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 一方北畠軍の来征を知った尊氏は、足利方の奥州官領斯波家長(しばいえなが)に来援を命じる。そこで家長は、相馬重胤(しげたね)、親胤(ちかたね)父子を含む奥州の足利軍を率い、北畠軍の後を追って西上する。

 留守の小高の堀内城には、重胤公の次子光胤(みつたね)公が、兄親胤公の嫡子松鶴(まつつる)丸(十三才)を擁(よう)して守備していた。

 遠征した北畠軍は、翌年二月足利軍を大破し、尊氏は九州に逃走する。かくして顕家卿は鎮守府将軍に任ぜられ、翌三月奥州へ帰遷の途につく。その途中で鎌倉に拠(よ)る斯波軍を攻撃して壊滅的打撃を与え、ために相馬重胤公らは自刃して果てる。更に宇都宮から東(あずま)海道に出た北畠軍は、同年五月二十四日小高城を攻撃したため、守備する光胤公ら一族郎党約千名が討ち死にした。

 但し松鶴丸は金谷の釘野山に脱出して無事であった。

 この相馬・標葉両軍主力が西上した留守において、標葉隆光公は顕家卿の留守を預かる廣橋経泰(つねやす)卿に属し、同年三月二十二日相馬氏の堀内城を攻め、また同月二十七日、足利の将大泉平九郎に率いられた相馬光胤公らは、標葉氏の請戸城を攻撃するなど、攻防戦が繰り返されていた。このような時代背景の中にあって、この地で展開された地方戦の一つが、大悲山大蛇伝説の素材であったものと考えられる。

 二、大悲山大蛇物語に登場する主要人物

 伝説に脊場する主要人物は、小高郷吉奈(よしな)村に住む玉都(たまいち)坊。大蛇が化けた若侍、女人に化身した観音菩薩(ぼさつ)。大蛇を退治する相馬光胤公の四名である。

 (一)、玉都(たまいち)坊(玉市とも記す)
 この玉都坊については、現長野県北佐久郡軽井沢町の人、または山形市山寺立石寺の小僧、或いは旧行方郡領主行方五郎隆行(たかゆき)公八代の喬(えい)、胤勝(たかかつ)公と伝えられているが、後者が尤(もっと)も大蛇伝説の内容にふさわしいので、胤勝公を玉都坊


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