わたしたちの郷土楢葉町 楢葉町小学校社会科教師用資料 - 001/110page
わたしたちの郷土楢葉町
一 わたしたちの楢葉町
1 町の沿革 歴史のあらまし
原始・古代と楢葉郡の起り
楢葉町の歴史は北向遺跡、天神原遺跡の発掘調査によって出土した石器などによって先土器時代(8000~13000年前)に遡ることができる。
縄文、弥生期の遺跡は町内各地域に互って散在しており、各期における土器片や完形の土器が出土している。天神原遺跡は東日本一の弥生期の墓域郡である。
4世紀頃には大和朝廷による国家が成立し、当地方にもその支配が及んでいたと考えられるが、蝦夷と呼ばれていたことでも分るように中央文化からは遅れていた。奈良、平安時代には中央では経済文化が発展するが当地方にはそれを裏付ける資料は少ない。
北向遺跡の竪穴住居址には「カマド」が付いており、鎌や刀子(とうず)が出土したことから鉄製品を使用した生活があったことが解った。山田浜には水田の条里制遺構が残されていた。
7世紀中頃陸奥国が成立し、養老2年(718)に石城国が分立した。「常陸風土記」によると南は助河(茨城県)を道口(みちのくち)とし北は苦麻(くま)(大熊町か)を道後(みちのしり)とするとあるように、当地方は早くから大和朝廷の支配を受けていたように思われている。「和名抄」の郷名の中に楢葉郷、白田郷が出ている。現在の広野町から大熊町あたりまでが楢葉郷と呼ばれていたらしく、平安末期になって石城郡から独立して楢葉郡ができ、当町はその中心地域であったと思われる。
中世武士団と楢葉・猪狩氏
平安末期武士団の成立に伴い海道平氏の流れをくむ岩城則道は浜通りを領有した後、岩城氏の一族楢葉太郎隆祐(たかすけ)が始めて楢葉郡を支配した。隆祐は館の山(山田岡)に居館を築き、ほととぎす山に砦(とりで)を構えたと伝えられる。
楢葉氏は鎌倉、南北朝時代には浜海道中の武士団に成長しその地位を保ち約三百年間支配する。